陥穽 
《3》















「桃城君、廊下に、お客様だよ?」
次の日。
朝から寝不足のせいもあって機嫌も悪く、机に肘を突いてぼおっと休み時間を過ごしていた桃城に、クラスの女子が恐る恐る声をかけてきた。
いつもは、桃城はクラスでも人気者である。
休み時間ともなると、最近はカードゲームで盛り上がっていて、桃城の周りは騒がしいほどだった。
それが、今日は朝からどんよりした表情で、ぐったりと机に突っ伏したり、不機嫌そうに眉を顰めたりしている。
いつもゲームをする友人たちも、桃城の方を心配げに眺めながら、桃城から離れた席で固まってゲームをしていた。
「……俺?」
「うん……ほら、あそこ」
指さした向こうに、ふんわりとした雰囲気を醸し出している人物を見て、桃城はぎょっとなった。
教室の扉から、不二が中を覗いていた。
桃城と目が合うと、にっこりと微笑んでくる。
さあっと身体の血が引いて、桃城は硬直した。
「あ、ああ、どうも………」
ぎくしゃくとした動作で立ち上がると、桃城は扉に向かった。
「素敵な人だね」
「あれ、テニス部の3年生の不二先輩だよ」
「優しそう……」
女子がかたまって、こそこそ不二を見ながらしゃべっているのが聞こえてきた。
桃城は、息を吸い込んで、何度も深呼吸して廊下に出た。















「なんか、用ですか?」
どうして不二が、わざわざ自分の教室まで来たのだろう?
部活以外で接触したことなど、今まで一度もなかった。
それだけに、桃城は不安になった。
もしかして、昨日、自分が覗いていたのを知られたのだろうか?
でも、昨日見ていた限りでは、そんな様子は見られなかった。
------何だろう。
とにかく、知らない振りをしているしかない。
「うん、あのね、キミ、落とし物しなかった?」
「落とし物っすか?」
「そう、これ……」
不二が、小首を傾げて笑いながら、右手を桃城の前に差し出してきた。
手の平に、MDが一つ乗っていた。
「あ………」
確かに、それは桃城の物だった。
自分で張ったラベルと、そこに書かれた自分のへたくそな字が証拠だ。
「ど、どうも………」
一体どこで落としたのだろうか?
覚えがなかった。
腑に落ちないまま受け取ろうとして手を伸ばすと、不二が桃城に耳打ちするように囁いてきた。
「これね、部室の裏の木の所に落ちてたんだ………」
「…………!」
心臓が一気に跳ねた。
ぎょっとして不二を見ると、不二が茶色の瞳を眇めて、桃城を射すくめるかのように見つめてきた。
「昨日、………見てたでしょ?」
「……お、俺……ッ」
動転して、桃城は思わず取り乱してしまった。
取り乱すという事は、すなわち不二の言を肯定したことになってしまう。
不二が薄く笑った。
「ねえ、ちょっと話があるんだけど、ここじゃ聞かれちゃうから、……図書室にでも行こうか?」
「…………」
断れない。
桃城は、呆然としたまま、不二のあとをついて廊下を歩いた。















青学の図書室は、別棟の端にあった。
広い室内には、一方に蔵書の棚が整然と置かれ、もう一方は、学生達の勉強机が一人一人区切られて広がっている。
「こっち……」
背の高い蔵書の棚の一番奥まで呼ばれて、桃城は、強張った表情のまま付いていった。
「ここなら、誰にも聞かれないから………ね?」
不二が唇の端を上げて笑う。
ぞくり、と得も言われぬ悪寒が走って、桃城は視線をずらした。
不二が、怖かった。
いつも部活で見ていた不二ではなかった。
今、自分の目の前にいる不二は、昨日、手塚に奉仕させていた時の不二だ。
「……ね、昨日は驚いた?」
不二が、本棚に凭れて桃城を見上げてきた。
桃城の方が、不二より少々背が高い。
僅かに目線を下にして、桃城は窺うように不二を見た。
「俺………」
「ねえ、昨日のこと、誰かに喋った?」
「い、言うわけないっス!」
思わず大きな声で言ってしまって、はっとして桃城は口を押さえた。
不二がくすっと笑った。
「……そう、どうもありがとう………助かるよ。やっぱり、ばれるとまずいしね……」
「その………」
「なに?」
「不二先輩は……あの………部長と付き合ってるんスか?」
あのプライドの高そうな手塚にどうやって接近したのか、それが知りたかった。
こわごわ聞くと、不二が目を丸くして、それからくすくすと笑った。
「そう見える?」
「だ、だって………あんな事………」
顔が赤くなって、桃城は俯いた。
「………付き合ってるわけじゃないよ……」
「……えっ?」
不二が肩を竦めて笑いを含んだ声で言ってきたので、桃城は呆気に取られた。
(……付き合っていない?)
「手塚はね……」
不二が本棚の本を手で弄りながら言った。
「手塚は、僕の言うことならなんでも聞くんだ………だから、してもらっていたのさ……」
「……部長が?」
「そう。……手塚、うまいよ? どんな要求でも飲むしね……勿論、……セックスも……」
「………!!」
不二の口から、普段口に出さないような卑猥な言葉が出たので、桃城は首まで赤くなった。
「…どう?……キミも、手塚にしてもらいたい?」
本棚から本を取りだして、不二はそれをぱさっと広げた。
本を見るような振りをして、ページの隙間から桃城を覗き込む。
「お、俺はそんな事………!」
眩暈がした。
あの部長が、セックスを-------?
------まさか!
「ふふふ、キミが黙っていてくれるお礼に、手塚を抱かせてあげてもいいんだけど。……僕がキミとセックスしろって言えば、手塚はちゃんと言うこと聞くからね。………どう?」
「……俺…………」
不二の言っていることが、とても信じられなかった。
部長が、不二先輩の言うことを何でも聞く?
------俺と、セックスするだって?
思わず後ずさって、背後の本棚に頭をぶつける。
ゴツン、と鈍い音がした。
「………どう?」
「……………」
愕然としたまま、それでも微かに首を降ると、不二が瞳を細めてくすっと笑った。
「……そう? 残念だな……」
本を棚に戻して、桃城の肩をぽん、と叩いてくる。
「もし気が変わったら、僕に連絡して?……いつでもいいよ、……手塚とセックスしたくなったらね…………?」
「…………」
呆然としたまま固まっている桃城の肩をもう一度叩くと、不二はくるりと踵を返して本棚から離れた。















キンコン………。
授業の始まりのベルが図書室に響いた。
彫像のように硬直していた桃城は、はっとして走り出した。
早く教室に戻らないと。
長い廊下をどたどたと走ると、歩いていた教員から、
「こら、廊下を走るんじゃない!」
と怒られた。
それでも桃城は、走るのを止められなかった。
「こらっ!」
怒声を背後に聞きながら、桃城は必死で走った。
胸が張り裂けそうだった。
頭が混乱して、何も考えられなかった。
「すいませんっ!」
そう怒鳴るように言って、教室に入る。
授業を始めようとしていた教師が、びっくりしたように桃城を見てきた。
「どうしたの、桃城君、顔が真っ青よ?……大丈夫?」
「大丈夫です、遅くなってすいませんでした………」
言って机に座って、教科書を取り出す。
鼓動が早鐘のように打っていた。
何度深呼吸をしても、胸の動悸が治まらなかった。
桃城は唇を噛んで、教科書を睨んだ。




















桃城ったらせっかくの申し出を(笑)