桎梏 《10》
カツン…………。
誰もいない廊下を歩くと、革靴の冷たい音が響いた。
窓から差し込んでくる早春の淡い光に、跡部は虹彩の薄い瞳を細めた。
廊下は冷え冷えとして、冷気が地面から這い上がってくるようだった。
-----ガチャ。
鍵を差し込んで、ドアを開ける。
半年振りのその部屋は、前回そこを訪れた時と全く変わっていなかった。
重厚な机。灰皿。
シンプルなソファ。
仄かに香るコロンの匂い。
懐かしさとともに胸に奇妙な痛みが走って、跡部は眉を歪めた。
卒業式の後の打ち上げパーティを断って、跡部は一人この部屋にやってきた。
忍足や向日が不審そうに自分を見ているのは分かったが、どうしても今日、榊に会いたかった。
卒業式の始まる前、職員室にいた榊に跡部は、部屋で4時に待ってます、と短い伝言をした。
返事を聞かずに職員室を出てきてしまったから、榊が来るかどうかは分からない。
でも、どうしても、今日は会いたかった。
今日で、この学校から出ていってしまうから。
もう、金輪際、ここに戻ってくることはないから。
跡部は、ソファに浅く座って、俯いて拳を握りしめた。半年前、跡部たち3年生は団体戦で青学に完敗し、また個人戦でも全国大会には出場したものの、やはり途中で敗退した。
3年生にとって、負けることは即引退を意味する。
そして、それまでの3年生と同様、負けた時点でもうテニス部に行くこともできなくなった。
氷帝学園の世代交代は厳格で、引退した後は全くテニス部に籍が無くなる。
ロッカーも私物も何もかも部室から引き取り、練習にも出ない。
跡部も例外ではなかった。
全国大会で負けた日、その足で跡部は氷帝学園の部室に行き、私物を全て引き取ってきた。
榊にも会わなかった。
大会の会場で試合を観戦している姿を見たのが最後だった。
『俺を失望させるな』
榊が自分に言った言葉を、跡部は一瞬たりとも忘れなかった。
榊の期待に応える事が、榊に愛される必要条件だった。
そこから外れた自分は、もはや榊の側にいることはできなかった。
最後に榊に抱かれたのは--------全国大会の数日前だった。
いつものように荒々しく入ってきた榊を、全身を震わせて受け止めて、跡部は涙を流した。
きっと、もうすぐ別れがやってくる。
そう確信していたからだ。
今日で終わりかも知れない。そうも思った。
でも、そんな気持ちを榊に知られてはならなかった。
いつもと同じように、ただ身体を繋ぐのが目的だというように、そんな風に抱かれるしかなかった。
自分の気持ちを押し付けてはいけない。
こうやって抱いてもらえるだけでいいんだ。
監督は、俺のことを好きなわけではないんだから。
俺が一方的に監督を好きなだけで。
監督は-------俺のことなど、ただの子供だとしか思ってないんだから。
それでも、跡部はおずおずと榊の背中に腕を回し、心密かに榊の名を呼んだ。
これで終わりかも知れない。
二度ともう抱いてもらえないのだ。
そう思うと胸がつぶれそうだった。
涙が後から後から溢れて、シーツに染みを作った。それから跡部は全く榊と会わなかった。
榊はテニス部専属のコーチのため、授業は持っていない。
職員室に来ることも稀だった。
だから、部活に行かなければ、榊と校内で会うことはない。
部活のない、榊のいない日常は、色彩のないモノクロの世界のようだった。
何をしても張り合いがなく、気力も湧かなかった。
跡部たちテニス部の3年は、みな氷帝学園高等部に進学することが決まっていたから、受験勉強に忙殺されると言うこともなく、張りのない日々が続いた。
たまに忍足や向日、宍戸たちと外部のテニススクールに通ったり、ストリートテニス場で試合をしたりはしていたが、跡部は何にも本気になれなかった。
榊に会いたい。
会って話がしたい。
話をして、それから……………。
ふと気が付くと、榊のことばかり考えている。
いくら考えても、もうどうしようもないのに。
彼にとって自分はもう用済みなのだ。
今更会っても、依然にもまして冷たい態度を取られるだけだろうし、そんな彼に、抱いて下さいなどとは口が裂けても言えなかった。
もう、榊とは終わったのだ。
彼にとって、自分に価値が無くなった時点で。
そう思うと、胸がきりきりと痛んで、眠れなかった。
あきらめよう、あきらめよう、と考えても、ふとした瞬間に、榊を渇望している自分に気が付いて、跡部は絶望した。
こんなに、執着していたなんて。
もう、二度と愛してくれない人に対して、俺はこんなにもまだ………。どんなに痛く酷い怪我でも、時間が経つうちに治っていく。
辛くても、苦しくても、それでも日々は過ぎていく。
月日が変わり、新しい年になって、だんだんと跡部の心は現実を受け入れるようになっていた。
忍足や宍戸とストリートテニス場で打ち合いながら、ふと空を見上げて思う。
もう終わったんだ。
そうなんだ。
俺と監督は………もう………。
何度も何度もそう思う。
思って、俯いて涙を拭う。
「おい、跡部、サーブ行くで?」
忍足がテニスコートの向こうから話しかけてくる。
鋭い球を、跡部は優雅に打ち返した。
少なくとも、榊との思い出だけはいつまでも自分のものだ。
榊に会って、氷帝にやってきて、そうしてテニスに打ち込んだ。
榊の存在があったからこそ、自分はこうやってやってこられた。
最初に榊に会った時のことを、跡部は狂おしいような気持ちで思い出した。
あの時、自分に媚びてこない榊を憎んだ。
自分の存在を蔑ろにされたような気がして、気に入らなかった。
あの時から、彼を好きだったんだ。
彼に認められたくて。
どうしても彼より優位に立ちたくて。
いかにも賢しげな、可愛い気のない子供だった。
もう一度、最初からやり直したい。
最初会ったときに、あんな態度をとらなければ………。
いや、そうしたら、俺はただのつまらない子供として、彼の目にも留まることがなかったに違いない。
「おい跡部、なに呆けてるんや?」
コートの向こうから、忍足がうんざりしたような声をかけてきた。
「うっせえな、テメェこそ気ぃ抜いてんじゃねえ」
はっと我に返って、跡部は首を振ると、サーブを打った。それから跡部は何度も榊のことを考え、彼との3年間を思い出した。
思い出す度に胸が疼き、辛く、そして切なかった。
榊のことはもうあきらめてはいたが、しかし、まだ最後の踏ん切りがつかなかった。
最後に、もう一度だけ会いたい。
二人きりで会って、何をするわけでもない、ただ感謝の言葉と別れが言いたい。
ちゃんと言っていなかった。
引退したときは、逃げるように部室から荷物を取ってきてしまった。
だから、最後に、お礼が言いたい。
一言だけ、お礼が。その日を跡部は卒業式の日にした。
最後に学校へ行く日。
もう、二度と中等部へ通わなくなる日。
その日だったら、榊も会ってくれるかも知れない。
そうも思った。
いくら自分をなんとも思っていなくても、彼にとってはもう用済みの人間であっても、その日だけは少しなら優しくしてくれるかも知れない。
跡部は、感謝の印として、贈り物を買っておいた。
榊がもらってくれそうな物をいろいろと考えた挙げ句、無難にライターにした。
行きつけのブランド店で、父親へのプレゼントと称してクレジットカードで買い、リボンを付けてもらった。
受け取ってくれないかも知れない、
会いに行っても、来てくれないかも知れない。
それでも、どうしても何かしたかった。
朝、部室から職員室まで探して、榊を見付けて、跳ね上げる鼓動を押さえて、さりげなく午後4時にコーチ室で待ってます、とだけ伝えた。
榊は表情の窺い知れない冷徹な瞳で、じっと自分を見てくるだけだった。
逃れるように職員室を出て、教室へ戻って、跡部は大きく息を吐いた。
胸が破裂しそうだった。
榊を見た途端、胸から切ない気持ちが溢れ出て、もう少しで取り乱しそうだった。
跡部は目を閉じて深く何度も息を吸い込んだ。
ちょっと時間的に未来になってます〜