不如帰 《8》
「……樺地、そろそろ帰るぞ」
2月の夜は、暖かな東京といえども侮れない。
学校での練習の後、跡部はいつも常連になっている区営のテニスコートで樺地と更に練習をするのが日課だったが、さすがに冬は長時間はできない。
心地良い疲労感と共に、2月の寒さが手や足の先から忍び寄ってくる。
跡部は、樺地にそう言ってコートから出た。
夏期は夜遅くまでボールを打つ音が響くこのコートも、さすがにもう、跡部と樺地しか残っていなかった。
跡部と樺地の通う氷帝学園中からこのテニスコートまではかなり距離があるが、実はここから跡部の自宅が近い。
そのため、樺地をよく引っ張ってきて、跡部は学校以外にも練習をしていた。
跡部の言葉に樺地が頷いて、コートの後片づけを始める。
ネットを弛め、ボールをカゴにしまって管理室まで届ける途中、樺地が大きな身体を横に向けて、観客席の方を見つめた。
「なんだ、樺地……?」
樺地が観客席のある場所を指す。
そこに目を向けると、誰かが座っているのが見えた。
(………こんな時間に見物か?)
遠くからではよく分からないが、若い男のようで、蹲っている。
「樺地、ほっとけ……」
そう言ったにも関わらず、樺地がさっさと観客席の方へ歩き出したので、跡部は少々面食らった。
樺地は滅多に喋らないが、跡部と樺地はいわば以心伝心で、特に何も言わなくても樺地の行動は読めるはずだった。
こういう時、樺地が自分から歩き出すことなど無い。
なのに、樺地が一人でさっさと行ってしまったので、跡部は慌てた
「お、おい、樺地…………?」
跡部は樺地の後を追った。
樺地は、早足で蹲っている男に近付いた。
近付いて、その男の顔を覗き込むようにして、それから跡部を振り返る。
「知ってるヤツなのか?」
樺地の表情を見て取って跡部は言いながら、蹲っている男に近付いた。
年の頃は同じぐらいだろうか。
私服には見覚えがないし、顔を膝に埋めているので表情も見えない。
が、髪型に見覚えがあった。
つんつんといろいろな方向を向いた、直毛。
「おい…………」
肩に触れてみて、跡部は驚いた。
服が氷のように冷たかった。
「……おい……」
肩を揺するようにして、顔を上げさせると、
(………手塚………)
髪型から推測した人物だった。
青春学園中等部の手塚国光。
-------しかし、どうしてこんな所に、青学の手塚がいるのか。
しかも、一人きりで、こんなに冷えて。
更に驚いたことに、手塚は体調が悪いらしく、意識が朦朧としていた。
顔を上げさせても、瞳も開けず、ぐったりとしている。
手塚と言えば、跡部の記憶に残っているのは、去年の青学との試合の時に、当時の氷帝の部長をシングルスの試合で打ち負かした時の彼だった。
その時の彼は、眼鏡の奥から鋭い視線で周囲を睥睨し、周りにいる人間に畏怖の念を起こさせるほどの迫力があった。
不敗を誇っていた当時の部長を完膚無きまでに打ち負かし、部長が茫然自失としていた事を、昨日のことのように覚えている。
その時の彼と、今、跡部の目の前にいる手塚は、まるで別人のように印象が違っていた。
外見は同じであるにもかかわらず、今、目の前にいる手塚は、まるで消え入りそうに儚げな雰囲気を纏っていた。
目を閉じているせいで、あの強い視線が見えないからだろうか。
それもあるが、それだけではなく、身体全体から発するオーラのようなものが、今は消えそうに弱々しかった。
「……おい」
言いながら肩を揺さぶってみるが、くったりとしたままで手塚は瞳も開けない。
しばしどうしたものかと腕を組んで考えて、このままここに置いておくわけにはいかないだろうと、跡部は考えた。
手塚がどうしてこんな所にいて、しかも意識が無いほどになっているのか理由は分からなかったが、このまま置いておいたら、冬の寒さの中で死んでしまうかも知れない。
しばし考えて、跡部は樺地に目配せした。
「……連れてくぞ」
樺地が頷いて、手塚を抱き上げると、肩に担ぎ上げる。
跡部は、手塚を担いだ樺地を従えて、コートから往来に出た。
走っているタクシーを捕まえて乗り込む。
タクシーは夜の街を十分ほど走って、跡部の自宅へ向かった。跡部の家は、閑静な高級住宅街の一角にある、瀟洒な三階建てである。
重厚な石造りの門の前でタクシーを降り、樺地をタクシーに残して、ぐったりとした手塚を引きずるようにしてタクシーから降ろす。
樺地を乗せたタクシーを見送って、跡部はぐったりとした手塚を肩に担ぎ上げると、腰を掴んで玄関へ向かった。
セキュリティを解いて、玄関を開ける。
跡部の家では両親ともに海外出張中で、ここ数日は跡部一人だった。
とは言っても、昼間は通いの家政婦が家事全般をやり、夕食も作っていってくれるので跡部一人でも特に支障はない。
家の中に入って、跡部は取るものもとりあえず、手塚をバスルームへ連れていった。
身体が氷のように冷え切っていたので、それをともかく温めないと、と思ったのだ。
大理石で出来た広く豪華なバスタブに、お湯を勢い良く張る。
「……おい……」
服を脱がせるときに一応声を掛けてみたが、やはり手塚は返事をしなかった。
身体もぞっとするほど冷たい。
その冷たさは生きているのかと疑われるほどだったが、手首を握ると、微かに脈打っているのが分かった。
跡部は軽く舌打ちをして、手塚の衣服を乱暴に脱がせていった。
下着一枚まで脱がせてさすがに躊躇したが、当の手塚が人事不省の状態では自分が脱がせるしかない。
トランクスを一気に脱がせ、跡部は手塚を全裸にした。跡部は、手塚とは大会の時しか会ったことがなかった。
いつもネット越しに、敵校の選手の一人として見たことしかない。
青学のレギュラー陣の中でも、特に異彩を放って、抜きんでた技量の持ち主。
鋭い視線で相手を見据え、冷静で的確な攻撃をしてくる。
上背もあり、迫力もあった。
そういう手塚しか記憶にない跡部にとって、今目の前に横たわっている手塚は、まるで別人のようだった。
血の気のない青白い顔をして、固く目を閉じて、紫色になった唇をほんの少し開いて、微かに息をしている。
筋肉がバランス良くついた身体は、さすがによく鍛えていると思うが、寒さで縮こまった性器が淡い茂みの中で頭を覗かせているのを見ると、跡部は複雑な気持ちになった。
こいつも、オレと同じ、年相応の男なんだな。
そう思ったのだ。
手塚の日常生活など想像もしていなかった跡部にとって、そういう手塚を見るのは不思議な心持ちがした。
軽やかな音楽が流れ、センサーがバスタブにお湯が張られたことを知らせてくる。
はっと我に返って、跡部は手塚の脇の下から手を回して、身体を抱え上げた。
バスタブにそっと沈める。
ぐったりとした身体は意外に重く、バスタブに入れるのは至難の業で、入れたときにばしゃっとお湯が跳ね、跡部の服はすっかり濡れてしまった。
「ちっ………」
軽く舌打ちをして、それでも跡部は手塚をそっとバスタブに沈めた。
頭が沈まないように、腕をバスタブの縁にかけさせる。
こんな風に他人の世話を焼くことなど、跡部の得意とするところではないので、跡部はいつになく疲れた気がした。
軽く溜め息を吐いて立ち上がると、跡部は一旦バスルームを出た。
玄関に設置してある電話帳をぱらぱらとめくり、青春台の地番の手塚という番号を探す。
探し出して電話を掛けると、案の定、そこは手塚の自宅だった。
母親が電話に出たらしく、跡部が自分の名前と、手塚の友人であるという事にしてその旨と、今日は手塚が自分の家に泊まるという事を告げると、よほど心配していたのだろう、母親が電話の向こうで泣き出したのが分かった。
こういう時、跡部は大人を安心させるのがうまい。
自分は手塚とはテニスで親しい友人で、今日は久しぶりに遭って話が弾んでしまい、今は彼はお風呂に入ってます。
自宅は××××です。
と、いかにも模範生のように話すと、母親が安心したように、
「よろしくお願いしますね」
と言ってきた。
電話を置き、それからタオルや着替えを用意すると、跡部はまたバスルームに戻った。
服がすっかり濡れてしまったので、どうせだから自分も風呂に入ってしまえと思って、脱衣所で服を脱いでバスルームへ入る。
「おい………」
手塚がぼんやりと瞳を開けていたので、気が付いたのかと思って声を掛けてみたが、手塚は反応しなかった。
眼鏡のない手塚の瞳は、なんとなく頼りなげに見えた。
跡部は手塚を窺いながら、自分もバスタブに身を沈めた。
跡部邸のバスタブは広く、大の男二人が入ってもお湯がこぼれることはないが、さすがに手塚がぐったりと脚を投げ出している分、跡部の入る余地はなく、跡部は眉を顰めながらも、手塚を膝の上に抱くような形で入った。
腕を回して、手塚を引き寄せる。
それまで外に出ていた手塚の腕を、湯船の中に入れる。
自分が抱えていれば、沈んでしまうこともあるまい。
-------しかし。
(どうしてオレが、ここまでしてやってやらなければならないんだ……)
と思うと忌々しい気もする。
が、かといって放り出しておくわけにも行かない。
「……おい……」
言いながら、跡部は手塚の身体に回した腕で手塚の肌をまさぐってみた。
湯船に使っていた部分は温かいが、湯船から出ていた腕や肩は、まだ氷のように冷たかった。
首まで手塚を湯に沈めて、熱い湯を手で掬って、手塚の顔にかけてやる。
「おい、手塚……?」
そうやって十分ぐらい浸かっていただろうか、手塚が自分の腕の中で身じろぎしたのが感じられて、跡部は首を回して手塚の顔を覗き込んだ。
手塚がぼんやりとした目で跡部を見てきた。
「オレが分かるか、手塚?」
手塚が、ぱちぱちと瞬きをする。
その様子が小さな幼子のようで、跡部はなんとなく可笑しくなった。
あの青学の手塚がこんな状態を晒すなんて、全く予想もしてないことだった。
「……オレが分かるか?」
もう一度聞くと、手塚が視線を少し彷徨わせた。
それから、漸く赤みの戻ってきた唇を、少し震わせた。
「……跡部………?」
自分の名前が手塚の口から出たことに、跡部は満足した。
「そうだ、氷帝の跡部だ」
そう言うと、それを聞いて手塚は、困惑したように目を瞬かせた。
「………ここは?」
小さな声で手塚が質問してきたので、跡部はなんとなく嬉しくなって、小さな子どもに物を教えるかのように得意げに答えた。
「オレのうちだ。おまえ、テニスコートで凍えてたからな、そこをオレが見付けてやったんだ。おまえ、あのままだったら凍え死ぬところだったぜ? 一体あそこで何をしていたんだ?」
跡部の言葉で、それまでの経過を思い出したらしく、手塚の瞳に力が戻ってきた。
周りを見回して、それから跡部を見る。
どうやら、自分が全裸で、しかも跡部に抱かれたような形で一緒に風呂に入っていることに気が付いたらしい。
どう反応していいか分からない様子に、跡部はくすくすと笑った。
「身体がすっかり冷えてたから、とりあえず風呂に入れたぜ。温かくなってきただろ?」
「あ、ああ………」
手塚が困惑気味に答える。
「しかし、おまえもオレに会えて良かったよな? オレじゃなかったら、こんなに親切にしてやってねえぞ?」
あの青学の手塚が、無防備で、しかも自分に保護されている。
それがおかしくて、皮肉めいた調子で得意げに言うと、手塚が瞳を伏せて、
「……そうだな、……ありがとう……」
と小さな声で言った。
まさか手塚に感謝されるとは思っていなかったので、跡部は面食らった。
「い、いや、別に………普通だったら誰でもやることさ。どうだ、身体? もう大丈夫か?」
手塚の意識がすっかり戻ったのが分かると、急に二人で密着して風呂に入っているのが恥ずかしくなった。
跡部は微妙に視線をずらして言った。
「自分で座っていられるんだったら、オレはもう出るぜ。二人で入っていて狭いだけだしな」
そう言って、手塚の身体に回していた腕を離して湯船から出ようとすると、手塚が跡部を行かせまいとするかのように身体を反転させて跡部にしがみついてきた。
「………お、おいっ!」
抱き付かれて、顔まで湯の中に埋まりそうになって、慌てて湯船の縁に手を掛ける。
「……なんだよ?」
答える代わりに、手塚はぎゅっと跡部に抱き付いてきた。
跡部の首に腕を回して、肩口に顔を埋めてくる。
-----------ドキン。
と心臓が大きく打って、跡部は狼狽した。
いくら男とはいえ、裸の人間に抱き付かれてしっとりとした肌の感触を感じて、本能的にぞくり、と身体が興奮したのだ。
「おい、手塚………」
さすがにまずい。
そう思って、跡部は上擦った声で手塚を引き剥がそうとした。
が、手塚は首を振って、更に強く跡部にしがみついてきた。
「……ど、どうしたんだ?」
跡部の耳に、微かに嗚咽の声が聞こえてきて、跡部は更に驚いた。
手塚が泣いている。
それはかなりの驚きだった。
手塚でも、泣くことなどがあるんだ。
勿論、いくらテニスが強いとは言っても手塚だって中学生なのだから、泣いたり笑ったりしても当然なのだが、こと手塚に関しては、そういう感情を表に出す姿を全く想像できなかっただけに、跡部は驚いた。
「どうしたんだよ?」
どう反応していいか分からず、困惑して言うと、手塚が更に泣きじゃくりながら跡部にしがみついてきた。
一生懸命声を抑えているのだろうが、それでも漏れる嗚咽の声は、跡部でさえ切なくなるほどだった。
一体、何がそんなに辛いのだろうか。
手塚のプライベートなど知る由もないから、全く理由がつかめない。
それでも、手塚が泣くぐらいなんだから、よほどの事があったのだろう。
嗚咽と共に手塚の身体が震える。
恐る恐るその手塚の背中に手を回して抱き締めると、手塚が更に堪えきれないかのように嗚咽を漏らした。
手塚がどうして泣いているのか分からなかったが、そんな手塚の様子を見ているだけで、跡部は胸が苦しくなるような気がした。
そんな気持ちになると言うこと自体、跡部には衝撃だった。
第2部跡塚編その2