不如帰 
《9》















跡部は他人に対して冷たい男である。
他人は他人、自分は自分で境界がはっきりしている上に、他人からべたべたと感情を向けられることも嫌いだった。
端麗な外見と優美な物腰とで、女に不自由することはなかったが、決まった彼女など欲しくもない。
適当に、軽く遊べる女がいれば充分だった。
たまに、そういう跡部の性格を理解していない女が鬱陶しくまとわりついてくるが、そういうヤツは容赦なく切り捨てる。
----オレを自分のものにできるとか思ってるんだったら、勘違いもいいところだ。
自分に好意を持ってくる誰に対しても、跡部はそう思っていた。
当然、自分から誰かに執着を持ったこともない。
そういう感情に自分が支配されること自体、嫌だった。
常に孤高で、スマートに生きていきたい。
それが跡部のライフスタイルだった。
そういう跡部にとって、誰かに泣きつかれたりするのは煩わしいの一言に尽きる。
………はずだったのに、なぜか手塚に泣きつかれて、自分がちっとも煩わしいとか思っていないことに気付いた。
本来の自分ならば、こんな手塚を見たら、失望するはずなのに。
自分にとって、手塚とは、ネット越しに鋭く睨み合う間柄で、こんな風に自分が慰めたり、いろいろ気を使ってやるような相手ではなかったはずなのに。
それなのに、今、自分の腕の中で身体を震わせて泣いている手塚を見て、なんとか慰めてやりたい、笑顔になって欲しい、と思う自分に、跡部は戸惑っていた。
宥めるように手塚の肩を撫でながら、そっと抱き締める。
今までどんな女にも、こんな親切にしてやったことなど無い。
跡部はいささか気恥ずかしくなっていた。
これではまるで、愛し合っている恋人同士のようではないか。
-----なんで、オレがこんなことしてやってんだ。
だいたい、手塚はどうしてこんなに泣いてるんだ。
コイツ、泣くようなヤツだったのか。
それも意外だった。
しかし、身体を細かく震わせて声を殺しながら泣く手塚は、とても放っておけなかった。
なんとか泣きやんでもらいたい。
跡部は冗談ではなく、真剣にそう思った。
















やがて、手塚の嗚咽がだんだんと治まり、跡部の首筋に埋めていた顔が上げられた。
手塚が、赤く充血した瞳でじっと跡部を見つめてきた。
------ドキン。
思わず心臓が跳ね上がって、跡部は内心狼狽した。
初めて、手塚の顔をちゃんと見たような気がした。
切れ長の形の良い瞳。
長く黒い睫毛が、霧雨が降るように被さっている。
少々下がった細い眉尻と、濡れたように光る、妖艶な黒い瞳。
ぞくっと背筋に電流が走って、跡部は困惑した。
自分が興奮したのが分かったからだ。
お互い裸で身体が密着しているから、自分の身体の変化を手塚に悟られてしまう。
手塚はちょうど、跡部の腰をまたぐようにして抱きついていた。
下半身がすっかり接触しているのだ。
しかし、手塚は跡部の身体の変化に気付かぬようだった。
跡部は密かにほっと息を吐いた。
「おい、大丈夫かよ? オレ、もう出るぜ?」
これ以上手塚と一緒にバスタブに浸かっていると、まずいことになりそうだ。
そう思って、跡部は言いながらバスタブから出た。
バスルームを出て、パジャマ代わりに着ているTシャツとハーフパンツを身に付ける。
跡部が服を着ていると、あとから手塚も出てきた。
どうやら意識がはっきりと戻ったらしく、些か不安げに周りを見回しながら、跡部をうかがうように見つめてくる。
眼鏡のない手塚の視線は、どこか茫洋として頼りなげだった。
全裸で立ちつくしているので、跡部の目には手塚の全身が余すところなく見て取れた。
長い間湯に浸かっていたせいか、全身がほんのりと上気し、水を弾く艶やかな肌が桜色に染まっている。
筋肉のバランス良くついた身体に心の底で感心するとともに、跡部の目は手塚の下半身に吸い付けられた。
柔らかな茂みの中に、手塚自身が綺麗な桃色に色づいていた。
同性の性器なんぞ、見たって面白くもなんともないし、それどころか反対に、気分が悪くなってしかるべきなのに、その時は違った。
ドクン、と血がざわめいて、自分の性器が重く膨れ上がっていく。
自分が紛れもなく手塚に欲情しているのを感じて、跡部は驚愕した。
跡部は自分から性的興奮を感じて事に及ぶような経験がなかったからだ。
誰かから誘われててそのままセックスをすることは、跡部にはよくあることだったが、それは誘われるからだった。
それに、セックスしたとしても、純粋に生理的な身体の反応であって、跡部の心はいつも冷えていた。
そしてどんな相手だろうが、終われば顔を見るのも煩わしく、すぐに別れてしまうというのが跡部のスタイルだった。
自分から欲情することなど、一度もなかった。
なのに、手塚相手だと、どうも勝手が違う。
まず、手塚は男だ。
それも、青学テニス部の部長だ。
しかも、手塚は別に自分を誘っているわけでも何でもない。
だいたい、手塚を見付けたときに手塚の家に連絡すればいいものを、そのまま自宅へ連れてきてしまったという事自体、跡部のライフスタイルに反していた。
「あ……これでも着てろ……」
手塚が所在なく突っ立っているのに気付いて、跡部は脱衣籠に用意しておいた服を指さした。
パジャマ代わりの自分のシャツとズボンだが、まぁなんとか手塚でも着られるだろう。
脱衣籠から手塚が服を取って身に付けるのを、跡部はじっと眺めた。
一緒に入っていた眼鏡を手塚がかけると、やっといつもの手塚が戻ってきたような気がした。
いつもの、試合会場で見る手塚だ。
落ち着いた物腰で、冷静沈着な。
跡部は少々ほっとして、口を開いた。
「おまえ、テニスコートでぶっ倒れてたんだぜ? だから、オレんちへ連れてきてやったんだ。今日はうちに泊まるっておまえんちに電話したぜ。文句ねぇだろ?」
手塚が僅かに目を見開いて、それから目を伏せた。
「……すまない。迷惑をかけたようだな………」
「あんなとこで何してたんだ? ま、腹減ってんだろ? 夕飯食おうぜ」
バスルームの扉を開けて、ダイニングへ手塚を招き入れる。
ダイニングには、イタリア製の重厚な彫刻の施された食卓と椅子があり、テーブルの上には温めるだけに用意された夕食が乗っていた。
それを見て手塚が目を見張ったので、跡部はなんとなく可笑しくなった。
(結構、可愛い反応するんだな………)
「これ、おまえが作ったのか?」
「違うよ。オレがこんなもん作れるわけねぇだろ? うちは家政婦雇ってるからな。……そこ座れよ、オレがあっためるからよ?」
考えてみると、手塚とこんな風に話をすることなど、今回のようなアクシデントでもなければあり得なかった。
そう考えると、なんとなく面白くなって、跡部は上機嫌になった。
椅子にきちんと座った手塚は、少々落ち着かない様子できょろきょろと周りを見回している。
「ご家族の方はいらっしゃらないのか?」
「ああ、親父とお袋はアメリカ行ってるからな。兄貴もアメリカにいるんだ。今大学に留学中なんだ」
プライベートなど言うつもりもなかったが、気が付くとべらべらとしゃべっていた。
「まぁ、うちの事は家政婦とかがやってくれるから、オレは別に気にしてねえ。好き勝手もできるしな」
夕食は、サラダとビーフシチュー、ステーキ、それにパンだった。
「オレんちは放任主義だから、まぁ、元気にしてりゃあいいってわけさ」
聞かれもしないのに、跡部は手塚にいろいろと話をしていた。
手塚がびっくりしたように自分を見てくるのが、可笑しかった。
















一通り食事が終わると、スナック菓子やら飲み物やらを持って、跡部は手塚を二階の自室へ案内した。
跡部の部屋は20畳ほどのワンルームで、重厚な外国製の家具とダブルサイズのベッド、近代的なオーディオやパソコン機器が並んでいる。
また、部屋の中から直接行ける形で、跡部専用のユニットバスがついていた。
「……で、手塚、おまえ、どうしてあんなとこにいたんだ?」
毛足の長いカーペットの上にごろり、と横になって、テレビでも点けるか、とリモコンを操作しながら、跡部は手塚に問いかけた。
手塚はこわごわといった感じで、跡部の向かい側に腰を下ろしていた。
「別に………」
「別にってことはねえだろ? なんだよ、言えねぇのか?」
チャンネルをいくつか替えてみて、興味を惹かれるようなものが放映されていないので、取りあえず音楽専用チャンネルにすると、跡部は手塚を見た。
「まぁ、いいけどよ。誰にだって、言いたくねえ事はあるな……」
手塚が押し黙ったままなので、跡部は肩を竦めた。
「で、よう、さっきは手塚、おまえしゃべることもできねえようだったから、とりあえずうちに泊まるなんておまえんちに電話しちゃったけどな、どうする? 身体が大丈夫なら、帰るか?」
はっとして手塚が顔を上げた。
縋るようにその目が跡部を見てきて、言葉には出さないが、泊めてくれと言っているのが分かった。
「……ま、別にオレはいいけどよ……」
縋るような視線に気圧されて、口ごもりながら言うと、目に見えて手塚が安心したように表情を弛めたので、跡部は驚いた。
殆ど見ず知らずと言ってもいい人間の家に来て、こんな風に頼ってくるなんて、一体手塚はどうしてしまったんだろうか。
こういう人間ではなかったはずだ。
跡部にとって手塚とは、ガードの堅い、警戒心の強い人物だった。
こんな風に敵校の人間の所で、しかも弱々しい部分を見せる人間だとは思っていなかった。
よほど、何かあったのだろうか?
「なぁ、明日はどうするんだ? オレは明日はまるっきり休みなんだけどな……おまえも休みなら、ゆっくりしてるか?」
跡部が泊めてくれるのが分かってほっとしたのか、手塚が嬉しそうに微笑んで頷いた。
手塚のそんな無防備な微笑みを見るのは、初めてだった。
笑うと、いつもきつげに吊り上がっている目尻が少々垂れて、びっくりするほど可愛らしくなる。
と同時に、跡部はまた、ドクン、と身体の血が下半身に集まっていくのを感じた。
無意識のうちに跡部は立ち上がって、手塚の側に行っていた。
どうしたのか、というような目で、手塚が見上げてくる。
白くほっそりとした首筋を見て、ぞくり、と甘い戦慄が走った。
オレは、こいつに欲情している。
-------どうする?
跡部は自分の欲望の所在を知って、瞬時迷った。
-------相手は手塚だぞ?
跡部は悪く言って下半身のだらしない男で、来るもの拒まず、去るもの追わずで、相手には事欠かなかった。
見てくれが抜群なので、女ならいくらでも寄ってくる。
もっとも、寄ってきた女に優しくしたりしないので、たいてい付き合っても一度か二度で終わってしまうが。
そんな生活をしていたので、はっきり言って、経験だけは豊富だった。
だから、今、自分が手塚に何をしたいのか、よく分かった。
------オレは、こいつを抱きたいんだ……。
跡部は男を抱いたことはなかったが、やり方ならよく知っていた。
女相手にアナルセックスをしたこともあるのだ。
しかし、さすがに跡部も迷っていた。
手塚を抱いてしまっていいのか?
どう見ても、今の手塚は普段の彼ではない。
何かよほどショックなことでもあって、それで尋常な精神状態ではなくなっている。
じゃなければ、オレの家なんかにきてこんな風にすがってきたりしない。
その手塚を、………抱いてしまって、大丈夫なのか?
もし、手塚が後で正気に返って、後悔するような事にでもなったら。
「……………」
「跡部……?」
跡部が急に押し黙ってしまったのをいぶかしんだのか、手塚が首を傾げて跡部を覗き込んできた。
切れ長の綺麗な瞳に、長い睫毛がけぶるようにかかっていた。
(構わねえ、ヤっちまえ………!)
急にぞくぞくと衝動が襲ってきて、跡部は耐えきれなくなった。
もし手塚が嫌がったらやめればいい。
とにかく、今はオレは手塚に欲情している。
手塚が欲しい。
手塚を抱きたい-------!
















第2部跡塚編その3