first love 《1》
10月ともなると、放課後一時間もすれば、空が赤く色づいてくる。
特別棟の1階の一番奥にある生徒会室で、近々開催される文化祭の計画を2年生の副会長と相談していた手塚は、生徒会室の窓から差し込む日の光が赤みを帯びてきたのに気付いて、ふっと顔を上げた。
大きく開いた窓から、秋の爽やかな夕風が、手塚の髪を揺らして吹き入ってくる。
窓の外は広い校庭で、ちょうど生徒会室の窓からは、対角線上に何面もあるテニスコートが見えていた。
現在、コートで元気良く声をかけたり、熱心に練習をしているのは、1、2年生である。
手塚達3年生は、夏の全国大会の終了と共に、部活を引退していた。
現在は、新しい部長に2年の桃城武が就任し、副部長の荒井とともに、慣れない部活の運営を頑張っている。
その部活の風景をなんとはなしに眺めていた手塚の目に、一人の小柄な1年生の姿が飛び込んできた。
3年が引退した後、青学の一番の戦力として活躍している、越前リョーマである。
「……………」
リョーマがテニスをしているところを見るのは、手塚にとって久しぶりだった。
引退した後、自分たち3年生が頻繁にコートを訪れたのでは、桃城や荒井が気を使ってしまうだろうと思って、手塚達3年生は、意図的に部活に顔を出していなかった。
だから、越前の姿は勿論の事、桃城や荒井や海堂のテニスをする姿も、手塚は見てはいない。
しかし。
先程から部長として元気良く指図をしている桃城の姿は、微笑ましく見ていた手塚だったが、リョーマの姿を見た途端、胸が締め付けられるような気持ちになって、狼狽えて視線を外した。
「…………会長?」
机の前で日程を考えていた副会長の2年生が、手塚にどうしたのだ、というように声をかけてくる。
「……あ、ああ………なんでもない……」
手塚はそう言って、机の前の日程表に無理矢理目を戻した。手塚がリョーマのことを特別に意識し始めたのは、いつ頃だろうか。
彼は、入部早々非常に目立った部員だったから、最初から注目していたことは確かだが、その注目は、テニスの才能のある選手というものだった。
それが、……………少なくとも手塚は、全国大会の夏の時点ではリョーマのことが怖かった。
リョーマのテニスの才能が怖いのではなく、リョーマが自分を見てくる視線が怖かった。
彼の視線は喩えて言うなら、まるで獲物を見付けた猛禽類のようだった。
或いは、獲物を捕まえた肉食獣とでも言うべきだろうか。
舌なめずりをして、これから食べてやる、とでも言うような、そんな食い付くような視線である。
しかも、その視線は、他の人間が手塚に向けてくるものとは明らかに違っていた。
他校の選手なども、手塚を食い付くような視線で見つめてくる事がある。
しかしそれは、テニスの好敵手としての手塚を意識した目である。
リョーマのものとは違う。
リョーマは-------彼は、手塚を、いわば男が意中の異性を見るときのような目で見てくるのだ。
目は口ほどにものを言うというがまさにその通りで、リョーマの目は言外に手塚が好きだ、できることなら抱き締めたい、触れたい、性的に関係したいという、そういう欲望に濡れた瞳だったのだ。
初めはリョーマの視線の意味がよく分からなかった手塚だが、何回もそういう目で見つめられて、その視線の意味することがやっと分かったとき、手塚はひたすら困惑した。
どうして自分が、二つも下の新入部員から、そんな目で見つめられなければならないのだろうか。
自分は先輩で、しかも男なのだ。
しかも更に手塚を困惑させたのは、リョーマの視線は、たとえば手塚に憧れる下級生の女の子達が向けてくるような視線とは違うと言うことである。
下級生の女子達が向けてくる視線は、ただの憧れから性的な意味合いを帯びたものまでいろいろあったが、そのどれにしても、性的な視線であっても、手塚に抱かれたい、という意味合いのものだった。
それはそれで手塚は困惑してはいた。
しかしリョーマの視線は、性的な意味合いが込められているとは言っても、女子学生とは違って、手塚を抱きたい、という意味合いのものなのである。
それは、何気ない仕草でもよく分かった。
部室で着替えをしていて偶然リョーマと二人きりになってしまったとき、そんな時リョーマは、まるで目の前の獲物に舌なめずりしているような獣の目で、手塚を見上げてくる。
手塚が困惑した表情を浮かべると、ふっと唇の端を上げて笑う。
さりげなく近寄ってきて、手塚の手に触れてきたりもする。
勿論、手塚はなにげなくリョーマから離れて、何も気が付かない振りをするのだが、そういう態度を取りながらも、そんな風にリョーマに接近されると、手塚の胸は張り裂けんばかりにどきどきした。
--------どうしよう。
………分からない。
………越前は、一体、俺になにをしたいんだ?
(……………)
彼のしたい事は、なんとなく分かっていた。
しかし、そんな事…………まさか本当に考えているのだろうか?
俺と…………?
------あり得ない。
無表情を装いながらも、手塚は心の中でそんな事をめまぐるしく考えていた。とは言っても、リョーマは手塚の手に触れるぐらいで、それ以上のことは決してしてこなかった。
ただ、手塚をじっと見つめてくるだけである。
その視線に気付く度に、だんだんと手塚は全身がかあっと焼けるように熱くなるのを感じるようになった。
越前に見つめられている。
そう思うと、身体が震えるような気がする。
あんな二つも下の、小さな新入生に。
-------この俺が。
そう思って平静を保って何気なくリョーマの視線をかわすのだが、何度も見つめられるうちにだんだんとかわしきれなくなってきた。
頬が赤くなり、身体が熱くなって、狼狽するのが周りに知られてしまうのではないか。
-------そんな風に危機感を抱いていたときに、全国大会が終わった。
手塚はリョーマの前から逃げるようにして引退した。
会わなければ、きっと忘れるだろう。
リョーマだって、見つめて少し自分に触れてくるだけで、それ以上のことはしてこない。
だから、ここでリョーマと会わなければ、きっと大丈夫だ。
手塚はそんな風に思っていたのである。
確かにリョーマと会わなくなって、1、2年生は秋の新人戦に向けての練習に入り、手塚達3年生は勉強の方に身を入れなければならない時期になった。
殆どの3年生がそのまま青春園の高等部に進むとは言え、中等部での秋の成績が高等部のクラス分けに影響する。
また少数ではあるが、他の高校を受験する生徒もいて、放課後も補習が行われたり、進学塾に通う者も多かった。
手塚も、2学期の初めは放課後の課外にずっと出席していたし、その後は生徒会の仕事があり、テニス部の後輩とは全く顔を合わせない日々が続いていたのである。
だから、リョーマの姿を見たのは、本当に久しぶりだった。
2ヶ月振りぐらいだろうか。
遠くから見るリョーマは、前よりも背が伸びたようだった。
前に見たときよりずっと大人びて、精悍な顔つきになったような気がする。
勿論、遠目にぼんやりと見ただけだから、そんな事分かるわけもない。
ただ、手塚がそう感じただけである。
手塚がリョーマを見たとき、リョーマは桃城と楽しそうに話をしていた。
桃城が笑いながらリョーマに話しかけ、リョーマが桃城の肩をぽんと叩く。
それを見て手塚は、胸の奥がズキンと痛んだ。
それと共に、ぞくぞくとするようなざわめきが心の底から湧き上がってきて、密かに狼狽える。
桃城と話をするリョーマは、全く明るい1年生そのものだった。
その様子を見ている限りでは、リョーマがあんな鋭い獰猛な獣のような視線を投げてくるなんて、とても想像もできないほどだ。
突然リョーマの視線を思い出して、手塚は背筋を震わせた。
自分の身体の奥まで、言ってみれば視姦するような、そんな目。
自分の手をそっと握って、アンタが欲しいんだとでも言うように見上げてくる目。
(越前…………)
一体どうして、自分はそんな事を思い出しているのだろう。
思い出して、しかも手塚が戦慄したのは、自分の身体の中に甘い疼きが生まれているという事だった。
(まさか、俺は…………)
手塚は慌てて首を振って、リョーマを頭の中から追い出した。
自分が怖かった。
リョーマはきっと、気付いているのではないか。
自分が、本当はリョーマを好きだと言うことを。
本当は、リョーマにもっと触れて欲しい、と思っていたことを。
あんな年下の少年に………欲情していたことを。
リョーマと会わなくなって二ヶ月。
手塚ははっきりと自分の気持ちを自覚していた。
自分は、リョーマを性の対象として意識している。
信じられないことだが、リョーマに触れられたいと願っているのだ。
だから、リョーマが怖かった。
夏の時点でもう、もしリョーマが接近してきたら、自分は拒むどころか、彼の手を取ってしまうのではないかと思っていた。
もし、リョーマの手を取ったらどうなるのだろう。
そう考えると………怖い。
このまま、リョーマとはできるだけ会わずに卒業してしまうのがいい。
もっと自分の気持ちが制御できて、リョーマと会っても自分の衝動を理性で押さえられるようになるまで、それまで会わない方がいい。
夕暮れのテニスコートを見つめながら、手塚は心の中でそう思っていた。
また思いきりオトメな手塚です。