バレンタインデー 
《1》













雲一つない空だった。
青く澄みきって晴れやかで、きらり、と、飛行機の銀翼が煌めいている。
「……………」
跡部は空を仰いで溜め息を一つ吐いた。
手にはリボンをかけた小さな箱を一つ------丁寧に紙袋に入れて持っているだけ。
立っているところは、東京の某住宅街。
予め調べておいた、手塚の住所である。
目の前に、手塚の自宅が立っている。
和風のどっしりとした、東京では珍しい広々とした家屋。
古めかしい塀と、からり、と音を立てて入る木の重厚な門。
その前に、跡部は先程からかれこれ30分ほど立ちつくしていた。
門の柱にインタフォンが設置してある。
それを押しさえすればいい。
押して、出てきた家人に、-----例えば、これ頼まれたので、とか軽く言って渡してしまえばいいのだ。
別に、これ、俺から手塚君に、などという必要などない。
さっと渡して、では、とか言って帰ってきてしまえばいいのだ。
中には、自分から手塚に当てた手紙も入っているし。面と向かって本人に言う必要などない。
そうなのだが。
「…………」
跡部はもう一度、深く溜め息を吐いた。
ここまで来て勇気が出ない。
インタフォンを押す勇気が出ないのだ
(おい、どうするよ………)
立ちつくしていると、2月で寒さも緩んできたとはいえ、身体の芯まで冷えてきた。
跡部は身体を少し震わせ、首に巻いていたマフラーに顔を埋めた。
やっぱり、帰るか………?
いい加減、なさけねえな、俺も。
心の中で自嘲する。
勇気を振り絞って、ここまで来たのに。
絶対、手塚に渡すんだと意気込んで、自分らしくもなく必死でやってきたのだが。
「………はぁ………」















「………何か用か?」
その時だった。
不意に後ろから声をかけられて、跡部は心臓が跳ね上がった。
「………っ!」
慌てて振り向くと、背後になんと手塚が立っていた。
「……どうした? わざわざ?」
久しぶりに見る手塚は、前より大人びた感じだった。
外出の帰りだろうか、少々頬を紅潮させ、自分をいぶかしげに見つめてくる。
「あ、……いや、その……」
不意を突かれて跡部は軽いパニックに陥った。
全身が熱くなり、頭がくらくらしてくる。
「……これ、やるぜ!」
どん、と手塚の手に押し付けるように紙袋を渡すと、跡部は一目散にその場から逃げ去ってしまった。















跡部が手塚に渡した物は、言うのも憚られるが、実は手作りのチョコレートだった。
しかも、結構大きなハート型で、中に『好きだ』、とかホワイトチョコの下手な字で書いてあったりする。
自分がそんなものを作るとは、実のところ跡部自身にも信じられなかったが、どうしても作りたくなってしまったのだった。
手塚のことは、全国大会の一回戦で対戦した時に好きになっていた。
何時間も死闘を繰り広げて、手塚の一挙手一投足を見つめ、彼の息づかいを聞き、限界まで心を燃やして、気が付いてみたら、跡部の心の中は手塚に占領されていた。
試合中の彼の表情や、形を痛めたときの苦悶の様子などまでが、跡部を煽ってくる。
------好きなんだ。
すぐに跡部は自分の感情がなんなのか気が付いた。
男を、しかもいわば自分の敵を好きになるとはかなりの驚きだったが、でも感情は止められない。
思えば思うほど、切なかった。
手塚に会いたい。
会って、話がしたい。
話だけでは勿論足りない。
会って、話をして、………それから、触れたい。
手塚の肌や髪に触れて、体温を感じたい。
(………馬鹿か、俺)
独りになるとそういう思いに悶々として、跡部は何度も自嘲した。
どう考えても、実現不可能だ。
まず、手塚は男だ。
しかも、ものすごく固そうだ。
俺が手塚に思いを寄せているなんて、そんな事、たとえ太陽が西から昇ったとしても想像できないだろう。
言ってみたらどうなる?
「……………」
一笑に付されて、軽蔑されるのがおちだ。
或いは、揶揄われたと誤解されて手塚を不愉快にさせてしまうかも知れない。
どっちにしろ、軽蔑されるか、嫌われるか。
っていうか、元々好かれてもいないがな………。
考えていたら悲しくなって、跡部は肩を落とした。
だいたい、手塚と会う機会もない。
部活動からは引退してしまったし、他校生と会う事など端からない。
最初から無理なんだから、いい加減あきらめろって事だな……。
跡部とて、無理なことと実現可能なことの区別ぐらいはつく。
自分が手塚とどうにかなる、などという事はどう考えても実現不可能なのは目に見えていた。
-----しょうがねえよな。
まぁ、好きになってしまったのはしかたがない。
それ以上どうにかしようとか思うのをあきらめるしかないだろう。
そんな風に自分に言い聞かせてはいたのだが。















だが、心の底の思いは、日に日に大きくなるばかりだった。
部活の事について話があるのだが、などと訳の分からない口実を付けて、青学に連絡を入れてみたり。
青学にわざわざ出向いて、手塚に会ってみたり(真面目な部活の話しかしなかったが)。
その際に、何気なく手塚の携帯番号を聞きだしたり。
メルアドも聞きだしてみたり。
それだけでもどきどきで、跡部としてはらしくなく狼狽した。
手塚は全くそんな跡部に気付くこともなく、淡々とした調子でメルアド等を教えてくれた。
中学卒業後についての話とか。
これからの青学と氷帝についてとか。
練習試合をしないか、とか。
そういう真面目な話ししかしなかった。
神妙な面持ちで、一方ではいささか尊大な態度で青学の部室で手塚と相対しながら、内心跡部はどきどきと跳ねる心臓を抑えかねていたのだった。
手塚が、好きだ。
もっと優しい言葉をかけてもらいたい。
自分のプライベートな話を聞いてもらいたい。
手塚個人の話を聞きたい。
俺に興味を持ってもらいたい。
………なぁ、手塚。
俺のこと、どう思う?
俺は、おまえのことが好きなんだ。
あの試合の時に、一目惚れしちまったみたいなんだ。
あれから、ずっとおまえのことばっかり考えてるんだぜ。
なぁ、俺のこと、少しは考えてくれてるのかよ………?
「では、練習試合の方は宜しく頼む」
怜悧な声で言われて、跡部ははっと我に返った。
心が、ちく、とした。
「あ、ああ。……じゃあ、日吉に言っておく。よろしくな」
がた、と椅子を鳴らして立ち上がり、少々俯きながら外に出る。















俺って、バカだ。
手塚は俺のことなんか、なんとも思ってねえ。
……当然だよな。
心がきゅ、と痛んだ。
まるで、初恋をしている少女のようだ。
自分の事ながら、笑えた。
「バーカ………」
元気なく呟きながら、待たせておいた樺地と青学を後にした………のが12月のこと。
-------そんな事もあったのだった。
教えてもらったメルアドにも、結局新年の挨拶をしただけだった。
それも、律儀に手塚の方から送ってきたので、それに返信したというだけだ。
心の中の思いは高まる一方なのに、それをどこにも吐き出せない。
辛かった。
いつもの自分が自分なだけに、そういう事をなんでも言える友人もいない。
いたとしても、きっとやめろ、とか言われるだけだろう。
自分でもバカだと思う。
こんな風に心の中で悩んでいるなんて、全く自分らしくない。
はっきり言ってしまえばいいのだ。
言って断られれば、あきらめもつく。
-------そうだ。
………言ってしまえ。
軽蔑されようがなんだろうが、言って後悔する方がずっといい。
このまま言わないで、心の中で考えてるだけじゃ、我慢できない。
2月になると、跡部はようやっとそういう心境に達した。
(よし、言ってしまえ!)
そう結論づけると、心が軽くなった。
どうせ告白するなら、ださいほうがいい。
断られるのは目に見えているのだから、格好悪く断られた方が気が楽だ。















そう思って跡部は、バレンタインを利用することにした。
デパートのチョコ売場に行って、手作りチョコセットを買ってくる。
女の子に混じって買うのはものすごく格好悪かった(普段の跡部だったら憤死している所だ)が、今回は格好悪いのが目標である。
周りの女性にひそひそと囁かれたり、反対に熱い視線を浴びたりしながら、跡部はチョコセットを買った。
買ってきて、ださいハート型にチョコを作ってみた。
お菓子の本を読みながら、それでも味だけはちゃんとしたやつにしようと、洋酒を入れたりなんだり工夫はしてみる。
表面に思い切り『好きだ』、と字を書いて、跡部は我ながら自分の所業に呆れた。
………おいおい、どうしてこんな事やってんだよ!
でも、なんか楽しい。
ラッピングして、完成したチョコを見ていると、心がふわっとしてきた。
断られてもなんでも構わない。
これが俺の気持ちなんだ。
格好悪くてださくて、他人の前では格好つけているけれど、その実勇気のない人間。
この格好悪いハートが、俺そのものなんだよな。
肩を竦め、跡部は苦笑した。















そういう訳で、いよいよ当日。
学校が終わった後、跡部は自宅に寄って、その日氷帝の女子生徒(や男子生徒から)もらった大量のチョコ(紙袋5袋分)を樺地に運ばせたあと、そっと手塚へのチョコを持って手塚の家に向かったのだった。
夕方で、暖かな夕日が雲を金色に染め、辺りをオレンジ色にしている。
心臓がどきどきしていた。
自分がバカな事をしているという自覚はあった。
俺らしくない。
こんな格好悪い事をするなんて。
もし、氷帝の他の奴等に知られたら、どうする。
俺の評判はがたおちだ。
などと思いつつも、心は逸ってくる。
まるで、本当に初恋している少女みたいだ。
自分のことながら、笑えた。















だから一層疲れたのだろうか。
不意打ちで手塚にチョコを渡してしまった後は、心にぽっかり穴が開いたようだった。
充実感と、空虚感がないまぜになっていた。
どっと疲れが出て、跡部は自宅に帰る早々、夕食も食べずにベッドに横になった。


















跡部がばりばり乙女ですな!