不如帰 《16》
春休みももう終わりに近い、4月の最初の日。
不二に無理矢理犯された後、手塚は二日ほど部活を休んだ。
どうしても不二と会いたくなかった。
みんなの前で、普通に不二に話したりできるとは思えなかった。
ちょうど家の用事もあったのを幸い、手塚は大石に部のことを頼んで、部屋の中でぼんやりとしていた。
不二のこの間の行動は、一体……。
手塚の心の中は、そのことで一杯だった。
ほんの少し、希望のようなものもあった。
自分は不二に、全く興味を無くされた訳ではないらしい。
あの時不二は、自分が不二ではない他の男と付き合っているという事に嫉妬していた。
嫉妬…………
と言うことは、つまり不二はまだ自分に執着をしているという事ではないのか?
まだ俺のことを好きなのじゃないか?
そう思うと、手塚の胸は震えた。
そう思いたい。
いや、きっとそうだと思う。
けれど。
だったらどうして不二は、もう一度付き合おうとか、やっぱり手塚のことが好きなんだとか言ってこず、あんな乱暴な行動をとったのだろう。
その辺が分からなかった。
無理矢理犯された身体も次の日にはほぼ回復していたが、手塚はその次の日も部活を休んだ。
不二と会って、どういうふうに対処するか、それを考えなくては、と思ったのだ。
一日考えれば何か解決策が見付かるかも知れない。
そう思ったのだが、一日考えても、ただぼんやりと時が過ぎるばかりで、夕方になっても、手塚はなんら良い考えが思い浮かばなかった。
明日は、いくらなんでも部活に行かなくてはならない。
夕食を食べて、自分の部屋に戻って、机の前に座って、手塚は机に頬杖をついて考えた。
そのままぼんやりと十分ほど座っていただろうか。
「………国光?」
部屋の扉をとんとんと叩く音がして、返事をして開けると、母親が立っていた。
「お客様よ、上がってもらうわね、不二君」
不二という名前を聞いて、手塚はどきんとした。
手塚の母は、自分と不二が現在絶縁状態であるのを知らない。
以前どおりの仲の良い友人だと思っている。
だから、何の疑問もなく通したのだろう。
「……どうぞ」
「……お邪魔します」
そう言って、不二が部屋に入ってくる。
「はい、これ。……ちゃんと煎れてあげてね」
一緒に持ってきたのだろう、母親が手塚に紅茶とポットのセットを手渡した。
「じゃあ、ごゆっくりどうぞ」
不二は、以前はよく手塚の家に泊まっていた。
だから、母親も慣れていて、不二を手塚の部屋に入れると、そのままとんとんと階段を下りて、下に行ってしまった。
「手塚、突然ごめんね………」
ふんわりとした穏やかな口調で、不二が言ってきた。
「い、いや、別に………」
この間とはまるで別人だ。
一体、不二は何の用で来たのだろう。
胸がどきどきして、手塚は不安が心の中に広がるのを感じた。
押し黙ったままティポットにお湯を入れ、紅茶を注ぐ。
「……ありがとう……」
絨毯の上に置いたローソファに座って、テーブルに置かれた紅茶を取りながら、不二がにっこりと笑った。
二日ぶりに見る不二は、数ヶ月前に見ていた穏やかな、優しい不二だった。
別れを切り出したときの不二でも、二日前、突然自分を強姦してきた時の不二でもなかった。
それでも手塚は、不安だった。
また何か酷いことを言われたら、どうしよう。
不二が何を言うか分からないから、一層怖かった。
不二を見ないようにして、自分も紅茶を飲む。
「ねぇ、手塚……」
不二が、話しかけてきた。
緊張して身体が強張る。
そのまま俯いていると、不二がそっと手塚の手を取ってきた。
びくり、として、手塚は不二を窺うように見た。
「手塚、あのね、………」
不二がそこまで言って、ふっと口を噤み、それから手塚の手を両手で包み込むようにして握ると、愛おしむように頬ずりをしてきた。
「不二………」
呆気に取られて、手塚が譫言のように呟くと、不二がじっとその手塚を見つめてきた。
「手塚、僕…………キミが好きだ。キミにいろいろ酷いことをして、今更謝って済む問題じゃないけど、でも、やっぱりキミに言っておきたかったんだ。……ごめん、僕、キミが好きです。キミ以外の人なんて、誰も目に入らない………」
「……不二、どうして…………?」
不二の告白は、信じられないほど嬉しかったが、手塚はどうしていいのか分からなかった。
なぜ不二は、突然。
今までのことは、一体…………。
疑問が次から次へと浮かんで、頭が混乱する。
「ねえ、もう一度僕たち、最初からやり直せないかな? キミさえ良かったら、僕ともう一度付き合ってほしいんだ。僕、もう、二度とキミを悲しませるようなことは、しないよ………」
不二が真剣な口調で言ってきた。
「キミが許してくれれば嬉しい。僕ね、跡部に会ってきた」
跡部という言葉で、手塚はびくっと震えた。
「跡部にさんざん叱られた。エージにも叱られたのに、ほんと、僕って、自分の事しか考えて無くて、やなヤツだったと思う。だから、キミは怒ってもいいんだ。僕のこと、許してくれなんて、本当はそんな事、僕、キミに頼めないよ。だって、一方的にキミを振った上に、一昨日はあんなことしちゃって………」
「不二………」
不二がぎゅっと手塚の手を掴んできた。
「でも、どうしても………やっぱり、僕、キミが好きなんだ。キミが好きすぎて、苦しくて、キミのこと好きになるの止めようと思った。……でも、やっぱり駄目だった。キミと別れてからも、ずっとキミのことしか考えられなかった。キミが跡部と楽しそうに歩いてるの見たんだ、この間。あの時は頭の中が真っ暗になった。どれだけキミ好きか。キミを他の奴らなんかに渡したくないか、分かった。
それで、頭に血が上っちゃって。こんな僕、キミと付き合う資格ないかも知れないけど、でも跡部が言ったんだ。キミは僕のことしか好きじゃないんだって。エージもそう言っていた。だから、もし、もしキミが許してくれるなら、どうか僕とまた付き合って下さい」
そう言って不二は、手塚の手を自分の胸に押し当て、祈るように頭を下げた。
「不二……………」
なんと答えていいか、分からなかった。
本当なんだろうか。
今不二が言ったことは、現実なんだろうか。
自分がずっと、こういう風に不二が言ってきてくれないかなどと思っていたから、夢を見ているんじゃないだろうか。
手塚は、空いている右手をそっと伸ばして、不二の髪に触れた。
ふんわりとして、柔らかな髪。
「手塚………」
不二が顔を上げて、自分を見てきた。
色素の薄い、茶色い瞳。
形の良い細い眉。
桃色の唇。
この唇から、自分の名前を呟かれて、どんなに嬉しかっただろう。
「不二…………」
掠れた声で名前を呼ぶと、不二が手塚に許しを請うように、手塚の許可を求めるように、ゆっくりと顔を近づけてきた。
柔らかな唇が自分の唇に重なって、ほんの少し触れて、すぐに離れ、窺うように茶色の瞳が自分を見つめてくる。
「………許してくれる?」
低く小さな声。
手塚はこくり、と頷いた。
不二が瞳を細めて、花が咲いたように笑った。
「………良かった…………」
小さな声で言って、もう一度顔を近づけてくる。
今度はしっかりと唇が重なり合った。
唇の輪郭を辿るようにすりあわせ、歯列を割って舌が入り込んでくる。
「う…………………」
舌の感触が甘やかで、優しくて、手塚は胸が詰まった。
不二のキス。
こんな風に優しくキスされるのを、どれだけ望んでいたことだろう。
ずっと、………ずっと寂しかった。
不二と最後にキスしたのは、寒い冬の日だった。
あれから三ヶ月。
三ヶ月なのに、半年も一年も経ったような気がする。
もう、永遠に不二とこんな風にキスをするなんて、できないのだと思っていた。
--------なのに。
不二の存在を確かめるように、腕を伸ばして不二の背中に手を回すと、応えて不二が、手塚の肩を抱いてきた。
抱き合ったまま、二人は、長く深い口付けを交わした。
このままずっと永遠に口付けをしていたかった。
触れ合っている部分からじんわりと温かな光が流れ込んでくるような気がする。
身体の奥が熱くなって、胸が詰まって、手塚は不二に抱き付いたまま身体を震わせた。
「手塚…………」
唇がほんの少し離れたときに、不二が囁いてきた。
「……ごめんね……」
第3部不二塚編その4