部長、大変です!《1》
「跡部部長、大変です!」
氷帝学園男子テニス部室の豪華なドアを開けて、一人の背の高い部員が駆け込んできた。
「鳳か、どうしたよ?」
正レギュラー用の部室の、部長専用のスペースでくつろいでいた跡部景吾は、息せき切って入ってきた鳳長太郎に、訝しげに声を掛けた。
よほど慌てていたのだろうか。
正レギュラー用部室は土足厳禁であるのに、どかどかと外靴のまま入ってきた。
綺麗に掃除してあるリノリウムの床に、泥が飛び散る。
跡部は、自分専用スペースに置いてある来客用ソファにゆったりと座り、午後の紅茶を楽しんでいるところだった。
紅茶を煎れているのは、樺地崇弘。
樺地の煎れる紅茶は絶品で、跡部はいつもこの午後のひとときを楽しみにしている。
大所帯のテニス部をまとめていくのは神経を使う仕事で、さすがの跡部でも、こうやってほっと一息つく時間がないとやっていけない。
今日の紅茶は、イギリスから個人輸入のローカルなものだった。
馥郁と湯気を立てるそれを、香りを楽しんで一口飲んだところに、鳳が駆け込んできたのだ。
せっかくのティータイムがだいなしにされて、跡部は眉を顰めた。
「そ、それがっ!」
しかし、鳳はそんな跡部の不機嫌さなどに気が付いている余裕もないようだった。
「あのっ、小川と近林が…」
「…どうした?」
小川と近林と言えば準レギュラーでダブルスを組んでいる2年生だ。
来年の主力として期待の大きい人材であるだけに、跡部は紅茶の不機嫌も忘れて鳳の言葉に耳を傾けた。
「それが、二人が、……青学の1、2年と喧嘩しちゃって……」
「ああ? 青学?」
「そ、そうなんです! ほら、ストテニ場、あそこで二人でテニスしていたら、青学のやつが因縁付けてきたって言う話なんです」
鳳の言葉に、跡部は首を傾げた。
……青学が因縁つけるか?
あの手塚が部長な青学テニス部は、卑劣なことや卑怯な手段を使わないで試合をする。
青学と因縁、という言葉は跡部の頭の中では結びつく単語ではなかった。
しかし、鳳はそんな跡部にお構いなく、言葉を続けた。
「小川が打ったボールが青学の2年に当たって……別に狙った訳じゃなくて、ラリーしてたらたまたまコートの側にいたんで当たっちゃっただけなんですけど。でも、向こうはわざと狙って当てたんだろうって言ってきかないんです」
小川と近林は準レギュラーの中でも、穏やかで爽やかで人当たりのいいテニス少年だ。
自分と違って(跡部は自分があまり性格がよくないということはそれなりに分かっていた)、誰かと揉め事を起こすような性格ではない。
それにしても、青学の人間だって、確かに喧嘩っぱやいヤツはいるが、向こうから喧嘩を売ってくるようなやつがいたとは思えない。
跡部は、不思議に思った。
「…で、どうしたよ?」
「は、はい。……それで小川と近林も、俺達はしてないってちゃんと言ったんですけど、向こうも聞かなくて、俺はびっくりしてただ見てただけで何もできなかったんですけど、その間に二人が連れて行かれちゃったんです」
「…ああ? 連れていかれただと?」
「はい……」
「青学まで来いって言っていたから、きっと今青学にいると思うんです。それで俺もついてくって言ったんです、二人だけじゃあぶないと思って。そうしたらアイツら、二人を返して欲しかったら跡部さんいひとりで来いって言うんです。部長が一人で詫びを入れに来たら、返してしやるっていうんです。跡部さんお願いです。あの二人何も悪いことしていないんです。どうかあの二人を助けてやって下さい。こういう時はもう、跡部さんじゃないと収拾が付かないです」
鳳が、泣きそうな顔で言ってくる。
確かに、ただのストテニ場の諍いというのではなく、向こうの学校に二人が連れて行かれたというのなら、これは部長が出て行かざるを得まい。
それにしても全く厄介だ。
跡部は眉を顰めた。
「分かったよ、俺が行ってくる」
まぁ、あの穏やかな二人が何か諍いを起こすなんていうことはまず考えられないし、どう見ても向こうの一方的な言いがかりという気がする。
……それにしても俺一人で来いだと?
まったく、人を虚仮にするにも程がある。
二百人もの部員を抱える都下随一のテニス部の部長に対して言う台詞ではない。
そう思って跡部はむかむかとしたが、そうは言っても部長たるもの、部員一人一人に対して責任がある。
可愛い部員が二人も理不尽に連れ去られてしまったのでは、行かざるを得まい。
眉を顰めて溜め息を吐いて、跡部は立ち上がった。
「じゃ、これから行ってくる。樺地、俺のカバン、うちに届けといてくれ」
「ウス」
樺地の返事を聞き、跡部は青学に向かった。
氷帝学園から青春学園までは、電車で30分ほどかかる。
なんで俺様が…………。
そう思いつつも、何かと部員思いの跡部は、しかたなくあまり乗らない電車に乗って、一人で青学までやってきた。
その日は休日で学校は休みだったが、青学の広い校庭では部活に勤しむ学生たちが賑やかに活動していた。
肩を竦めて、跡部は青学の校門から中に入った。
帝という字のデザインされたエンブレムを付けてネクタイをした学生は、一目で他校生と分かるせいか、部活をしている学生達が、ちらちらと跡部を見てくる。
女子学生などは、跡部を見て、数人でこそこそと話し合って頬を赤らめたり、わざわざ他の生徒を呼びに行くものさえいた。
そんな風に注目されるのには慣れきっていたから、跡部はギャラリーの脇をさっさと擦り抜けて、テニス部の部室に向かった。
どうやら部活は既に終了したらしく、何面もあるテニスコートには既に人影がなかった。
考えてみると、氷帝の部活もお昼過ぎには終了していて小川と近林はその後ストテニ場にいったわけである。
そうすると、もう部室にはそんなに人も残っていないはずだ。
……もしかして、いねえなんて事はねえだろうな。
とにかく小川と近林を連れていったのだけは確かなのだから。
なにふざけた事してんだって、一喝して連れてこなくてはな。
……全く、粗末な部室だぜ。
氷帝の豪華な二階建ての部室に比べると、青学の部室は、一階建てのプレハブ小屋と見まがうような簡素なものだった。
ドアノブをガチャガチャと動かし、跡部は乱暴にドアを開けた。
「…おい」
その時、跡部はすっかり油断していた。
中にはてっきり小川や近林、それから二人と喧嘩をしたという青学の二年生、それから俺を呼んだと言うことはきっと手塚がいるんだろう、そういうふうに思いこんでいた。
それに跡部は、自分は氷帝の部長なのだから、その自分に無体なことをしてくるやつなんかいないと、当然の前提としてそんな風に思っていた。
だから、まさかドアを開けた途端に、部室の中に引き込まれ、後ろから羽交い締めにされて、猿ぐつわを噛まされるなんて、そんな事全く想像もしていなかったのである。
「う………」
抵抗も何もする暇もなく、跡部は鳩尾を拳で殴られて昏倒した。
ちょっと跡部をいたぶりたいなぁというかなんというか(笑)な話v