壁立千仞
--へきりつせんじん-- 《1》













「では、取材に行ってきます」
月刊プロテニス編集部の編集長に挨拶をすると、井上は取材に必要な機材を詰め込んだバッグを肩に掛けた。
井上が月刊プロテニスを出版しているこの出版社に入社したのが8年前。
大学卒業してすぐの事だった。
もともとテニス関係の記者になりたかった事もあり、新入社員の頃から自社で発行している月刊プロテニス編集の方に携わりたいと思って数年。
念願の月刊プロテニス編集部に属する事もでき、井上は自分の仕事に誇りとやりがいを持っていた。
月刊プロテニスは、プロと名前がついているものの、学生テニスの記事をメインにして力を入れている。
その記者としての仕事は重要だ。
井上以外にも数人の専属の記者がいて、それぞれグループを組んで中学・高校・大学テニスと取材や編集を請け負っている。
その中でも特に中学は雑誌の目玉であり、自然、井上に期待される事柄も大きい。
できるだけ正確で面白い記事。
各地の埋もれた人材から、有名な中学生まで、さまざまな角度からの取材が求められる。
月刊プロテニスの情報を元にしている関係者も多い。
それだけにいい加減な記事は書けなかった。
この日も井上は神奈川に取材に行くところだった。
助手の芝と二人で、電車に乗る。
今日の仕事は、神奈川県の立海大附属中学校で開催される全国中学生テニストーナメント関東大会組み合わせ抽選会の記事を書くことだった。
井上のフィールドは主に関東圏である。
その関東での大会ともなれば、取材にも力が入るというものだ。
(ついでに、立海大の練習でも見てくるか…)
などと考えながら、井上は電車の窓に流れる東京の景色を眺めていた。















井上と芝が立海大附属中に到着した時には、既に抽選会場の講堂には、多数の関東大会出場校の中学生達が集まっていた。
関東大会は関東一都6県に、隣接の山梨県、合わせて8つの県都から16の中学が出場する。
そのうちシード校で抽選を行わない高校を抜かして、くじ引きによる抽選が行われる。
抽選の進行そのものは特に取材を必要とするようなものではなかったので、井上はあとで結果を本部に聞きに行くことにし、講堂から出ると、そのまま立海大付属中の広い校庭や校舎を横切り、河川敷に大きく広がるテニスコートの方に向かった。
立海大附属中は過去16年連続関東大会優勝、そして過去2年連続全国大会で優勝している全国一の中学校である。
その設備も豪華で、学校の隣を流れている一級河川の広い河川敷に、全天候型照明つきのテニスコートが6面。
更には独立した鉄筋コンクリート建築3階建てテニス部部室棟がそびえ立っている。
その隣の小道を抜けてテニスコートを上から見下ろすと、ちょうど副部長の真田弦一郎が、高校のOBと試合をしているところだった。
(これはいい所に来合わせたな)
立海大附属中の真田といえば、現在全国の中学生の中でも一番に強く、『皇帝』との異名をとる人物である。
彼の試合が見られるとは、それだけで抽選会に来た甲斐があったというものだ。
テニスコートへ降りる長い階段を芝と歩きながら、試合を見学する。
真田と試合をしているのは、昨年度全国大会で優勝した時のメンバーの一人だ。
高校に行ってもテニスを続け、高校テニス界でも注目の人物でもある。
そのOBと互角、いや、OBを遙かに凌駕する力を、真田は見せていた。
真田の、中学生とは思えぬ落ち着いた物腰。
俊敏な動き。
静と動の見事なコントラスト。
筋肉の躍動が、テニスコートの外まで伝わってきそうだった。
試合は6−3で真田が勝った。
コートの外で見ていた井上は、思わず
「す、凄い、真田君!」
と声を発してしまった。
コートの中の真田がす、と井上を振り返ってくる。
切れ長の黒い瞳が鋭く自分を見つめてきて、井上は思わずどきり、とした。
真田の眼光は鋭い。
目深に被った帽子のせいなのか。
瞳に掛かっている黒い前髪のせいなのか。
形の良い太い眉を僅かに顰め、厚めの唇を動かして、低く響く声を発してくる。
「井上さん、笑わせないでくださいよ。OBは高校受験でブランクがある。現役の我々が負けるわけ無いでしょう。我々立海の全国3連覇に死角はない」
大言壮語。
そう受け取られても仕方のない言葉を、しかし彼はいとも当然の如く発してくる。
そして、その言葉は決して大言でも壮語でもないのだ。
『皇帝』
その呼称がこれほど似合う男もいないだろう。
まだ15歳の中学生。
自分の年齢の半分の、ほんの子供なのに。
「…………」
井上は、真田から発せられるオーラに圧倒されていた。
















抽選が終わって、がやがやと講堂が騒がしくなり、出席していた各校の代表達が帰り始める。
井上は抽選の結果をメモしながら、この記事に付ける文章を考えていた。
抽選の結果は、昨年関東大会準優勝の氷帝学園と、ベスト4の青春学園の東京勢同士が一回戦であたるという、あっと驚くような結果となった。
「これは、波瀾万丈だな…」
一回戦で負ければ、全国大会へは出場できない。
という事は、青学か氷帝のどちらかは、全国大会へ行けない、という事だ。
何よりもまず、これを記事にして書くべきだろうな、と思いながら抽選結果の書かれたホワイトボードを眺めていると、
「井上さん、ここにいらしたんですか」
と、背後から声がかかった。
「真田君か…」
振り向くと、真田が立っていた。
テニスコートから直接来たのだろうか。
立海大テニス部のジャージ姿に、いつもの帽子を目深に被っている。
「抽選結果が意外だったな…」
「…どっちとあたることになるか、楽しみです」
「青学か、氷帝と、という事かな?」
真田がホワイトボードを眺めながら言ってきたので、井上は問いかけた。
立海大附属中は勿論第一シードで、準決勝で山吹中、もしくは不動峰中とあたる以外にさしたる強豪校がない。
反対のブロックに強豪校がひしめいている。
青学・氷帝・千葉の六角中。
そのどれが決勝に出てきてもおかしくないのだが、ここで真田が言っているのは、青学と氷帝の事だろう。
そう思って言ってみると、真田が頷いた。
「君はどっちがいいのかな?」
ふと、この『皇帝』は、どちらの学校と対戦したいのだろうと思って聞いてみると、真田は軽く笑った。
「別に……どちらでも構いません。どっちにしろ、我々が勝つのは分かり切ってますからね」
不遜とも取れる発言と、落ち着いた声音。
普通の中学生が言ったとしたら、井上は不快になっていただろう。
なんと態度の大きな、世間知らずの子供だろう、と。
だが、真田は違う。
彼は、自然体で言っているのだ。
彼と話していると、井上は、自分が真田よりも年下なのではないか、と思ってしまう事がある。
それぐらい、真田は年齢不相応に落ち着いていた。
落ち着き払って、世の中を何もかも知っているように悟った雰囲気を醸しだしている。
「真田君……」
この少年は-----いったいいつからこんな風になったんだろうか。
ふと興味が湧いて、井上は真田をしげしげと眺めた。
井上の不躾な視線に気づいたのか、真田が顔を僅かに傾けて、井上を見つめてきた。
深い、凪いだ海のように落ち着きを湛えた、虹彩の小さい、黒い瞳。
近くで見ると吸い込まれそうに黒く、三白眼ぎみに目尻がつり上がった瞳は、綺麗な二重で意外なほど睫が長かった。
きつい視線と、きり、と上がった太い眉に気を取られて気づかなかったが、瞳は濡れたように光っている。
はらり、と前髪が垂れ、瞳に掛かっている様は、武士、という言葉を井上に連想させた。
武士が戦場で髪を長く垂らしている様。
そんなストイックな……それでいてなにか、彼の瞳からは、大人の匂いがした。
中学生ではない。
大人として、自分に真っ向から挑んでくる、いや、挑んでくるなどという表現は真田からしたら片腹痛いだろう。
彼は、自分よりも上なのだ。
遙か高見から、見下ろされる感覚。
(これが、王者の風格か……)
圧倒されると共に、その風格の中に潜む、ひそかなエロティシズムを感じ取って、井上は狼狽した。
真田の瞳を見ていると、己が奪われそうだった。
吸い込まれる。
引き込まれ、自分の醜い欲望の所在を暴かれる…………そんな危惧。
隠された醜い欲望。
---------即ち。
王者を組み伏せ、自分の身体の下に組み敷きたい……という暗い欲望。
彼は、どんな表情をするだろうか。
この、誰にも屈しない瞳が、快感に潤むことなどあるのだろうか。
この、落ち着いた冷静な声が、熱く熱を持った喘ぎに変わることなど、あるのだろうか。
誰にもひれふさず孤高に頂点を極めた彼を………俺が貶め、啼かせてやりたい。
どんな顔をするだろうか。
あの太い眉を顰め、あの切れ長の鋭い瞳が俺を睨んでくるだろうか。
憤怒と屈辱に濡れた瞳は、どんなに美しいだろうか。
















「…井上さん?」
真田に呼びかけられて、井上ははっと我に返った。
我に返り、自分の邪な妄想に愕然とする。
(……いったい、俺は……)
「どうしたんですか? お疲れのようですが。……良かったら、部室の方でお茶でもどうですか?」
「あ、あぁ……そ、そうだね。呼ばれてもいいかな?」
「ええ、今日は抽選も終わりですし、ここは締めるようですから、行きましょう」
す、と真田が歩き始める。
しなやかな背中の筋肉の動き。
短く刈った髪の生え際と日に焼けた項と、太い首筋。
「…………」
どくんどくん、とまだ心臓が跳ねていた。
井上は息を詰めて、真田の後ろから講堂を出て行った。


















というわけで部室で二人きり…v