雨雲 
《1》











湿った重い空気が、窓を開けるとじっとりと身体に纏わりついてくる。
そのせいなのか、俺は身体が怠かった。
手足が痺れて、力が入らない。
そのくせ体重は2倍ぐらいになったように重くて、ベッドから起きあがるのも怠い。
溜息を吐くと、俺は部屋の隅に持ってきてもらった車椅子に、這うようにして乗り込んだ。
身体が重くて動くのが辛い時に使うようにと、病院から借りたものだ。
椅子に腰を下ろし、大きな車輪をゆっくりと回す。
回すのもかなりしんどいものだったが、歩くのよりはマシだ。
ベッドでただ寝ているのも、もう限界に近い。
病院の中を歩いていれば、少しは気が紛れるかと思って、病室から出て長い廊下をゆっくりと息を切らせながら車椅子を動かす。
エレベータに乗り込み、入院病棟のロビーへ出て、そこで新聞を読むか、或いは他の入院患者のたわいもないおしゃべりなどを聞いていれば、少しはましかもしれない。
エレベータから降りると、南面の大きな硝子窓の向こうは曇り空だった。
灰色に重く垂れ込めた厚い雲が、それでも白く眩しく、硝子窓を通して俺の目に入ってきた。
雨粒が、強化ガラスに当たって滴り落ちる。
ロビーへ車椅子を転がしながら、ぼんやり窓の外を眺めていると、
「…幸村君」
と、聞き覚えのある看護師の声がした。
「…はい?」
看護師に対しては、俺は愛想がいい。
気を引き締め、にっこりと作り笑いをして声のした方を向くと、
「………」
一瞬顔を顰めそうになって、俺は必死で作り笑いを維持した。
若い女性の看護師数人が輪を作っており、その中心に真田がいた。
看護師に囲まれて、まるで王様のように。
……ああ、そういえばあいつは『皇帝』だったからな、まぁ、おかしくはないが……堂々と、泰然自若とした風貌をして、それでいて礼儀正しい育ちの良い雰囲気を漂わせていた。
看護師が真田を眩しげに見つめ、小首を傾げて笑う。
「お友達が見舞いに来ているわよ、幸村君。…毎日来てもらって、幸村君って幸せものね。こんないいお友達がいて」
邪気はないのだろうが、看護師の言葉にかっと頭に血が上った。
慌てて深呼吸をし、激情を抑える。
看護師の言葉で気が付いたのだろう、真田がはっとしたように俺の方を向いてきた。
同時に看護師の目も俺も見ている。
俺はにっこりと笑いかけた。
「やぁ、真田、今日も来てくれたんだ、ありがとう」
「…あ、あぁ。……大丈夫か?」
「あ、真田君が来てくれたんだから、真田君に押してもらうといいわよ、幸村君。どうせならその辺散歩してきたら?」
看護師がにこにこしながら俺に話しかけてきた。
「真田君みたいな人に押してもらえたら安心よね」
「幸村君がうらやましいわねー」
看護士が小鳥の囀りのようにさざめいている所から、真田が出てきた。
少々顔を強張らせて俺を見下ろしてくる。
「じゃあ、散歩行ってきますよ。失礼します。…真田、押してくれないかな?」
「あぁ」
俺が内心どんな気持ちでいるのか、少しは分かったんだろうな。
真田が強張った声で答えてきた。
俺は看護師ににっこりと挨拶をして、車椅子の向きを変えた。














看護師の姿が見えなくなるまで、俺はじっと黙ったままで車椅子に乗っていた。
真田も押し黙ったまま、車椅子を押す。
「幸村、その……」
沈黙に耐えきれなくなったのか、真田が恐る恐る声を掛けてきた。
「雨で服が濡れたので、ロビーの所で拭いていたら、看護師の人たちが来たんだ。お前が降りてくるのが分かっていたなら、もっと早く病室へ行ったんだが…」
「………」
(何言ってるんだ、こいつ…)
胸がむかむかした。
別に俺は真田がどうだろうと、そんな事知った事じゃない。
看護師がどんな目をして真田を見つめていたとか、そんな事、気にしちゃいない
俺はどうせ病人で、真田は健康で男らしくて格好いい中学生だ。
看護師よりもずっと背が高くて、中学生とは思えない落ち着きで。
それにたいして俺は車椅子ででもなければ歩けないような身体で、筋肉も落ちてしまったし、看護師に身体を拭かれるぐらいだ。
「…病室に戻る」
唐突に言うと、真田がびくっとした。
「あ、あぁ、分かった」
ちょうどエレベータの前まで来ていたから、そこから乗り込んで、病室のある階まで登る。
俺は一言も口をきかなかった。
吐き気がして、身体が熱かった。
真田が憎らしくて、眩暈がした。














病室に戻った時は、出た時よりもずっと身体が重かった。
「大丈夫か?」
俺がぐったりしているのが分かったのだろう、真田が心配そうに声を潜めて話しかけてきた。
気怠い顔を上げて真田を見ると、俺と視線が合った真田が息を詰めて、微かに瞬きした。
「健康で、いいよな…」
ベッドに腰掛けて重い身体を横たえながら、ぼそりと呟く。
「幸村…」
「お前の健康な身体に触ったら、俺も元気になるかな…」
「………?」
「裸になれよ」
「……ゆきむら?」
俺はごろりと仰向けに転がって、真田をじろりと見た。
「全部脱いで、俺に見せてくれたら、俺も元気になりそうな気がする」
「そ、そうか…?」
(バカ、そんなわけないだろう)
どうして真田って、いつまでたっても学習能力がないんだろうか。
真田が気後れもせずにばっと制服を脱ぎ始めるのを、俺はぼんやり眺めた。














真田の逞しい全裸が、俺の前に現れる。
いつ見ても、いい身体だ。
筋肉がかっちりとつき、小麦色に日焼けしていて、いかにも健康そうだ。
ちょうどギリシャの彫像みたいだ。
陰毛は黒々として濃く生えそろっており、ペニスが重そうにもったりと垂れ下がっている。
(こいつ、恥ずかしくないのかな?)
まぁ、この間肛門まで見たから、真田自身はもう慣れてきたのかも知れない。
「……脱いだが…」
真田がおずおずと話しかけてきた。
こういう時の真田は、先ほどロビーでみた姿とは全く違っている。
ロビーでは看護師に囲まれて皇帝然としていたのに、俺の前だと萎縮して、まるで犬のようだ。
堂々とした肢体は変わらないのに、おどおどとした仕草が似合わない。
「いいよな、真田は。いい身体していて…」
俺は重い腕を上げて、額にかかってきた髪を払った。
「看護師だって、お前の方が格好いいと思うに決まってるよな」
「先ほどの人たちか? そんなlことはない、みな幸村のことを心配していたぞ?」
「…煩いよ。お前は答えなくていいんだよ」
俺は瞳を眇めて真田を睨んだ。
真田が息を詰める。
「……すまん」
大きななりをして、俺の視線に萎縮したように身体を強張らせる。
薄いカーテン越しの光が、真田の逞しい肢体を、筋肉の隆起をはっきりと浮かび上がらせる。
鍛えた胸筋。
盛り上がった肩。
堅く引き締まった腹。
太い腿。
腰から股の間だけが白いのが妙に淫靡だ。
(もうすっかり大人並みだよな。こいつなら看護師何人でも相手にできるだろうな…)
などとふと考えて息苦しくなった。
嫌な気分だ。
吐き気がする。
真田の身体など見ていたくもないのに、目が惹き付けられる。
こんな風に健康だったら、真田よりも俺の方が………
--------俺の方がいったいなんだっていうんだ。何をくだらないことを。
別に身体がどうだろうと、精神力さえ強ければ。
テニスは頭脳プレイだ。身体を言い訳にするな。
………だが、俺はそのテニスさえできない。
なにもかも………真田には敵わない。
息が思うように吸えない。苦しい。
俺は胸を押さえて眉を顰めた。
「幸村…」
真田の心配そうな声が聞こえる。
そんな目で見るな。
俺はお前なんかに心配されるような、弱い存在じゃないんだ。
俺のことなど放っておいてくれ。
俺が許可していないのに、側に寄るな!
















また真田虐め話…