視線
 《2》












次の日。
その日は金曜日で、手塚は午前中、学校で入院の諸手続や学校側からの書類等々を渡され、その日は昼前に早退した。
後は月曜日に飛行機に乗って九州へ旅立つだけである。
既に荷物はあらかた作り終え、大きなものは入院先の宮崎の病院に宅急便で送り届けてある。
手塚の持っていくものは飛行機内に持ち込める手荷物程度で十分だった。
家に帰って軽い昼食を済ませ、その後手塚は友人に会ってくるから、と母親に言って、家を出た。
跡部にあらかじめ連絡しようか、とも思ったがわざわざそこまでして向こうに予定を組ませるのも申し訳ない、まぁ、会って2、3分立ち話でもできれば自分の気持ちもおさまりがつくだろう、そう思って、連絡はせず、あらかじめ調べておいた住所に従い、地下鉄に乗り、目的地に行く。
そこは、山の手の閑静な高級住宅街の一角だった。
しばらく書店で時間をつぶし、それから地下鉄に乗ったので、着いた時には既に夕方で、普通ならば跡部も帰ってくるだろうという時刻だった。
が、考えてみれば、跡部が学校からどこにも寄らずに帰ってくるとは限らない。
重厚な石門に跡部、と黒い大理石で刻印された表札を眺めながら、手塚はそういて、自分の迂闊さに少々肩を竦めた。
ずっと帰ってこない相手を待って門の前に立っているのも、不審者と思われるかもしれない。
来てはみたものの気後れがして、手塚は自分の計画性の無さに赤面した。
どうするか。
わざわざここまできたのに会わずに帰るというのも残念だが、あまり待つのも変だろう。
後10分程度待って、来なかったら帰ろう。
夕方になっていたが、夏至の近くだけあって、まだ太陽は高く眩しい。
跡部の家から少し離れた街路樹のベンチに座って、手塚は犬の散歩をしている中年の婦人や、ゆっくりと歩く老人などを見つめながら、そう考えた。
暫くぼんやりと物思いに耽る。
そこに、
「なんだ、手塚じゃねえか」
急に上から言葉が降ってきて、手塚ははっと我に返った。
街路樹を遮って、見慣れた人物が立っていた。
白いシャツに、ネクタイをだらしなくゆるめて、腕組みをして顎をさすりながら、睨みつけるように見下ろしている。
「おい手塚、テメェなんでこんな所にいるんだよ」
会いたい人物が突然目の前に立っていたので、手塚は驚いた。
眼鏡の奥の目を見開く。
跡部がふんと鼻で笑った。
「あァ、俺に会いにきたのか?」
虹彩の薄い瞳が眇められ、形の良い唇がすっとつり上がる。
「あ、あぁ、そうなんだが…」
なんとなく口ごもって、手塚は小声で言った。
「ふーん、…まぁ、上がれよ」
学校から直接帰ってきたらしい。
手には薄い、氷帝のエンブレムが入ったスポーツバッグ。
だらしなくずりおろしたズボン。
そんな後ろ姿を見ていると、手塚は自分がどうして跡部に会いに来たのか分からなくなった。
重厚な門の前で、跡部がインタフォンに向かってなにやら呟くと、門がすっと開く。
「ほら、来いよ」
「…あぁ…」
跡部に誘われるままに、少々気後れしながら、手塚は跡部の後に続いて建物の中に入っていった。

















跡部の家は三階建てのヨーロッパ調の邸宅で、広いエントランスを抜けると豪華なリビングがあり、吹き抜けの高い天井からは、硝子を通して夕方の光が柔らかく降り注いでいた。
「せっかくだから、夕食でも食ってけよ」
跡部は上機嫌だった。
薄く頬に笑いを浮かべ、手塚をダイニングに案内する。
家政婦だろうか、中年の優しそうな婦人が、にこにこしながら手塚の分も食卓に食事を並べた。
「ご両親はいらっしゃらないのか?」
「あァ?おれんちはな、普段は俺だけだぜ」
「そうか、…独りか…」
レストランのフルコース並みの食事に、突然で申し訳ありません、と家政婦に丁寧に礼を言う。
跡部と二人で食事をしていると、何となく不思議な気がした。
普段はだらしないように見えても、食事をしているときの跡部は手つきも上品でマナーもしっかりしていた。
そういう彼を見ていると、心なしほっとする。
日常風景というものがあまり想像できなかったからだろうか。
特に何か話があるわけでもなかったが、一緒に食事をするというのは考えてみれば人が心を通じ合わせる手段でもある。
食事をしているうちに、手塚は自分の心の中のざわめきがだんだんと凪いで穏やかになっていくのを感じた。
……来て良かった。
食事の礼に、後で九州から何か送ろう。
そう思いながら、食事を済ませる。
ふと気が付くと、もう、外が暗くなっていた。
あまり長居しても失礼になるだろう。
食事を終えて手塚が帰ろうかと考えているところで、跡部が家政婦に何か言い、家政婦がにこにこしながら頷いた。
「せっかくだから、俺の部屋に来いよ。コーヒーとか部屋に持ってきてくれるように頼んだからよ」
上機嫌な跡部にそう言わると、帰ろうと思っていた手塚にも異論があるはずもない。
手塚は家政婦にごちそうさまでした、と一礼をして跡部の後に続いた。


















跡部の部屋は、広い階段を上がった二階の奥にあった。
二十畳ほどの広さがあるだろうか。
その部屋の中だけで生活ができるのではないかと思われるような、ホテル並みの設備だ。
部屋の南面と東面に大きな窓があり、その外にはベランダがある。
また西面の壁には廊下に通じる扉と別の扉があり、奥に更に部屋があるようだった。
部屋の調度品や広さに手塚がいささかたじろいでいると、跡部が話しかけてきた。
「ほら、座れよ」
布張りの重厚なソファを勧められ、そこに座ると、後から入ってきた家政婦がごゆっくりどうぞ、と言いながら、テーブルの上に、品良く盛りつけをしたケーキと、香ばしい匂いを立てるコーヒーをセットで置いていった。
壁面を大きく飾るホームシアターの豪華なセットや、その反対側にあるパソコン、それから北側の壁に面して置いてある大きなベッド。
これらを眺めて、手塚は軽く溜め息を吐いた。
家政婦が掃除をしているのだろう。
きちんと片付けられ、生活感の薄い部屋だ。
自分の家は日本家屋で、自分の部屋と跡部の部屋は随分と違う。
が、そんな部屋でソファにゆったりと腰を掛けてコーヒーを飲んでいる跡部は、部屋の雰囲気に自然にとけ込んでいた。
一枚の西洋画を見ているような感じだ。
…などと考えて、手塚は心の中で苦笑した。
「で、なんか用だったのか?」
ソファの肘掛けにだらしなく肘を突いて顎を支え、鷹揚な態度で跡部が声を掛けてきた。
「あ、いや。……特に、用はないのだ。ただ、俺は来週九州へ行くのでな。その前の少々挨拶をと思ってな…」
「あァ、九州?…なんだ?」
「肩の治療だ」
「へぇ、そうか。肩、ンなに悪いのかよ?」
「いや、それほどでもない。全国大会までには戻れると思う」
「ふーん、全国大会まで行くつもりか」
「もちろん、お前達に勝ったからには、全国大会までいかないと、お前達の気がすまないだろう?」
そう言うと跡部は肩を竦めてふん、と鼻を鳴らした。
「…別…」に
そう言いつつ、瞳を細めて手塚をじっと見つめてくる。
その視線に、手塚は微かに身体を固くした。
「お前のいねェ青学じゃなあ、どうだか…」
「大丈夫だ。越前もいるしな」
「あぁ、あいつか、確かに…」
跡部が顎を撫でながらにやりと笑う。
「まぁ、俺にとっちゃ、お前以外は眼中にはねえがな。…にしても、わざわざそれを言うためだけにおれんちに来たのか? ご苦労なこった」
跡部がだるそうに髪を掻き上げながら言ってきた。
「よくうちが分かったな。わざわざ調べたのか?電話でもくれれば良かったのによ」
「いや、わざわざお前に電話をするのも申し訳ないと思ったからな」
「なんだよ、その程度なのか、俺の存在はよ」
跡部が笑いを含んだ声音で言いながら、手塚の眼鏡の奥の瞳を射抜くように見つめてきた。
どきん、と心がざわめいて、手塚は無意識に瞬きをし、跡部から視線を逸らした。
「ふん……」
跡部が軽く鼻を鳴らしてコーヒーをまた飲み始める。
手塚も跡部の向かいの席でコーヒーを飲みながら、黙ったまま自分の感情の在り所に困惑していた。
一体どうしてわざわざ跡部に会いに来たのだろうか。
それは、………気になったからだ。
……何が気になったのだろう。
分からない。
だが…………。
先程の心のざわめきに、一層風が吹いてきて波立ったような気がした。
向かいから自分を見つめてくる跡部の視線を感じて、手塚は僅かに硬直した。
-------------カタン。
急いでコーヒーを飲み終え、コーヒーカップをテーブルの上に置き、
「ごちそうさま」
と言って、ソファを立つ。
「夜分突然失礼した。では」
跡部に頭を下げてバッグを手に取ろうとするところを、跡部に遮られた。
「あァ? なんだよ…」
優雅な動作でソファから立ち上がると、跡部は足早に歩いて手塚に近づいた。
「よォ、このまま帰れると思っているわけじゃねえだろうな…」





















跡部は別に手塚が好きなわけではありません〜