次の日は雨の日曜日だった。
雨の時は、部活は外ではなく、広い体育館の一角を使用して、主にストレッチや筋トレ、素振りなどの基本練習が行われる。
しとしとと降る雨を体育館の二階のロビーから眺めて、忍足は秀麗な眉を顰めた。
「おい、何ぼんやりしてんだよ、忍足」
「あ、あぁ、すまん」
どうやらぼんやり雨を見ていたらしい。
跡部に叱咤されて慌ててストレッチを再開する。
「やる気ねえのか? こういう練習が一番重要なんだって、テメェはよく分かってんだろ?」
肩をぐぐっと跡部に押されて、無理矢理伸ばされた筋肉が痛む。
「あいたたた……もっとゆっくりしてくれへん?」
「身体堅ェな。…もっと柔らかくしとかねえと、試合で小回りきかねえぜ?」
跡部の呆れたような口調が上から降ってくる。
「岳人なんかあんなに柔らかいのになァ…」
「岳人と俺では体の作りがちゃうわ」
「口答えすんなよ」
更にぐい、と身体を折り曲げられて、太腿の裏側がきりきり痛んだ。
「も、もうやめっ」
「ちぇ、身体、ほんとに堅ェな…」
跡部が肩を竦めて他の部員の方へ向かっていくのをはぁはぁと息を切らし、床に仰向けに寝転がって、忍足は眺めた。
高い天井に、曇り空からの柔らかな光が微妙に陰影をつけている。
(雨降っとっても、図書館は関係なしだし、来るんやろな…)
痛む太股の裏側をゆっくりと動かして、忍足は起きあがった。
部活終了後、しとしとと降り続く雨の中を、その日も一緒に調べ学習をすることになっている女子生徒とともに図書館に向かう。
入って女子生徒に引き立てられるようにして資料のある本棚へ連れて行かれる間にも、忍足はきょろきょろと周囲を見回していた。
(まだ、来とらんようやな…)
雨だからだろうか、昨日にも増して図書館は人が多い。
皆それぞれ静かに机に向かって読書をしたり、勉強道具を広げていたり、或いはソファに座って雑誌を読んだり、イヤホンでCDを聞いていたりする。
ぱらぱらと格好だけは調べているふりをしながら、忍足は閲覧室の出入り口をちらちらと眺めた。
なかなか手塚が来ない。
そのうちに、調べものはほぼ終了し、女子生徒が
「もうこのぐらいでいいかな。忍足君、この図書館来るの、終わりにできるみたいだよ?」
と言ってきたので、忍足は心なしがっくりした。
雨だから、青学は部活がなかったのかもしれない。
とすると、自宅から出ずに、家で勉強しているのだろう。
今まで膨らんでいた心が急に萎んだ。
(なんや、変やな…)
別に、昨日たまたま妙な所で出会っただけの話だ。
また試合になればいやでも顔を合わせるのだし、青学の手塚と個人的に話さなくてはならない事柄など何もない。
とは思ったが、胸がなんだかちくりとした。
「帰ろうよ」
言われて、軽く溜息を吐きながら立ち上がる。
閲覧室を出てロビーに行った時、シュン、と自動ドアが開いて、外から雨混じりの風が入ってきた。
それとともに入ってきた人物を見て、忍足は足が止まった。
「あ、俺ちょっと話してから帰るわ。先帰っててな?」
「そう? じゃあ、先に帰るね、忍足君」
女子生徒が手を振って入れ替わりにドアを出て行く。
「…今日はもう終わったのか?」
しっとりと湿り気を帯びた髪を掻き上げる動作を、忍足はなぜかどぎまぎして眺めた。
「終わったとこやけど……手塚はこれから勉強するん?」
「そうだな……では、昨日約束したことだし、ちょっと待っていてくれ」
そう言って手塚が自動販売機の前に立つのを、忍足はロビーの円テーブルに設置してある椅子に座りながら眺めた。
程なくして、両手に一つずつ湯気の立つ紙コップを持って手塚が戻ってくる。
「紅茶にしてみたんだが、良かったか? 砂糖は入れてないんだが」
「あ、あぁ、ええよ。コーヒーにも紅茶にも砂糖は入れへんから」
「そうか、良かった…」
そう言って手塚が微笑する。
なんだかきまりが悪くなって、忍足は視線を逸らした。
その日は二人で紅茶を飲んですぐに別れたのだが、別れ際に何気ない風を装って、忍足は、来週も来るかと尋ねてみた。
部活が終わったら来る、という言葉を聞き、それを胸に暖めたまま帰途につく。
自宅に戻って夕食を食べ、風呂に入って自室に戻ると、忍足はごろりとベッドに横になった。
(来週も、図書館行けば会えるんやな…)
今日交わしたたわいない会話を思い出す。
特に何を話したというわけでもなく、学校のことや部活の事だったのだが。
普段話したことのない相手だけに、緊張もあった。
が、それよりももっと手塚のことを知りたい、という気持ちが強かった。
(なんやろ…)
どうしてそういう気持ちになるのか、自分でも不思議だった。
今まで、青学の手塚といえば、しかつめらしい表情と、冴え冴えとした怜悧な瞳、自校の跡部よりも怖いと思わせるような威厳があって、忍足などは敬遠していた、と言った方がいい。
試合で話したといっても、跡部の後ろで二人の会話を聞いているぐらいだった。
それが、実際テニスとは関係のない所で会ってみると、堅い話し方や仕草は同じものの、今まで持っていたイメージとは全く別な側面を発見したというわけだ。
柔らかく、しっとりとしたイメージ。
一緒に会話をしていると、心が充たされるような、そんな感じ。
(来週は、なんか持ってこかな……あそこの自販機もええけど、すぐ飲み終わってしまうしな…)
そう思うと来週が楽しみだった。
(なんや、変やな…)
忍足は妙にウキウキしている自分に苦笑した。
次の週は、忍足は既に調べ学習は終わっていたが、図書館に行って手塚と会った。
その次の週も約束を取り付けて一緒に勉強をする。
教室の机の中に放り込んであった勉強道具一式をわざわざ持ち帰り、いかにも勉強しているように、手塚と隣り合わせで机に向かい、ノートにペンを走らせる。
ちらちらと隣を見ると、手塚は真剣に問題集やノートと取り組んでいた。
白い横顔と、高い鼻筋。
隣で見ると、睫が驚くほど長い。
「…どうした?」
ぼぉっとしている所を見とがめられて、慌てて自分も机に向かう。
(しょうもないな…)
だが、とても落ち着いて、なぜだか勉強もはかどった。
静かな午後の図書館に、高い窓から淡い光が差し込んできて、手塚を照らす。
そんな様子を見ていると、忍足は心の中が満ち足りてくるのだった。
ずっとこうして、静かに勉強をしていたい。
手塚の隣に座っていると、勉強も楽しいし、内容も頭によく入るような気がした。
とは、手塚の方もそう思ってくれているのか、休憩の時に、
「忍足とだと、勉強がはかどる感じだ」
と言われたので、忍足はわけもなくどきどきした。
(なんやろ、この気持ち……)
自分のそんな気持ちに戸惑う。
そんな風に数回あった後の事。
その週の休日はぱっとしない天気で、部活をしている間にぽつぽつと小雨が降り出してきた。
「ちぇ、雨かよ」
跡部が悪態を吐いて、部員を集める。
「今日は終わりにするから、後始末、ちゃんとやっておけ」
そう言って跡部が部活を終わりにするのを、忍足はなんとなく落ち着かない気持ちで見ていた。
終わったら、すぐにその足で、図書館に行くつもりだった。
「おい、これからどうするよ?」
部室で制服に着替えている時に跡部が声を掛けてきたが、それにもちょっと用があるので、と挨拶をしてそそくさと部室を出る。
傘を差して早足で歩き、地下鉄に乗って図書館まで行くと、忍足はいつものロビーできょろきょろと周りを見回した。
「まだ、きとらへんようやな…)
ここの所、このロビーで落ち合って一緒に学習室に入り、隣り合った席で数時間勉強をする、というスタイルが定着していた。
勉強の合間には休憩を取り、このロビーの自販機で買った紅茶や珈琲を飲みながらとりとめもない会話をする。
たいていテニス部の他の部員の事や、学校の話などであったが、手塚の趣味の話なども聞くことができた。
「へぇ、手塚は登山とか好きなん?」
「釣りも好きだ」
「健康そうでええなぁ。…俺は、映画見るぐらいやな…」
「…映画もいい。登山や釣りに関係のある映画だと、俺もよく見に行っている」
「そうなん?……じゃ、今度一緒に見にいかへん?」
などと先日話が進んだので駄目元で誘ってみると、手塚が眼鏡の奧の切れ長の瞳を細めて頷いたので、その日は忍足はすっかりうきうきとしたりしていたのだった。
そんな事を思い出しながら、椅子に座って待っていると、
(あ、来た来た…)
自動ドアを開けて見覚えのある背の高い姿が入ってきたので、忍足は微笑を向けた。
が、微笑は途中で強張ってしまった。
手塚は一人ではなかった。
青学の制服を着た女子生徒と一緒に入ってきたのだ。
同級生なのだろう、手塚を見上げて嬉しげに何か話をしている。
背中の半分ぐらいまである三つ編みの髪が揺れ、眼鏡を掛けた聡明そうな女子だ。
忍足を見つけたのか、手塚がその女生徒に何か一言二言言ってから、忍足の方に向かってくる。
忍足は強張ったままだった。
手塚が女性連れ---------勿論、そういう可能性などいくらでもありそうなものなのだが……現に自分も最初にこの図書館に来た時は女子と一緒だったのだから……なのに、今までそういう可能性を微塵も考えたことの無かった自分に今更ながら気が付く。
「すまない。今日は一緒に勉強したい、という人がいてな」
忍足の前まで来ると、手塚が申し訳なさそうに言ってきた。
「……あ、あぁ、そのようやね、手塚もなかなか隅に置けないやん……つきおうてる人か?」
「そんな人ではない」
手塚が眼鏡の奧の眉を顰めたのが分かって、忍足は胸の奥がちり、と苛立った。
「ま、仲良うな? 俺も今日は用事があるよってに、帰ろう思うてたとこなんや。じゃぁ、またな?」
がた、と音を立てて椅子から立ち上がると、忍足は荷物を乱暴に肩に掛けさっと歩き出した。
背後で手塚が何か言いたげに自分を見つめているのは分かったが、振り向くことができなかった。
振り向いたら、手塚を思いきり睨んでしまいそうだった。
いや、手塚ではなく、一緒に来た女生徒の方を。
自分を保てそうになかった。
肩に掛けたバッグを左右に千切れるほど揺らしながら、忍足は表情を硬くしたまま図書館を出た。
手塚とか意外と女子に友達がいそうな気がします。
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