「跡部知っとる? 手塚が肩の治療のために宮崎に行くんやて」
部活の休憩中に忍足から突然そう話しかけられた時、跡部は表情が歪むのを隠せなかった。
忍足が、やっぱり知ってなかったのか、というような目をして己を見つめてくるのを、僅かに視線を逸らして、殊更気にしていないふうを装う。
そんな事は、別にどうでもいいことだと言わんばかりに、コートのベンチに腰掛けて組んでいた足を組み直す。
「……なんでンな事知ってんだよ?」
それでも、忍足がどこからその情報を仕入れたのか、また情報の真贋について気になって、跡部は声音を替えないように平静を装って問いかけた。
「不二から聞いたんや。青学系列の病院が宮崎にあるんやて。そこにしばらく入院するそうや。今度の土曜日に行くそうやで。手塚、全国大会に出られんかなぁ…」
「…知るかよ」
と、いかにも気のなさそうに答えたものの、跡部は密かに胸の奥で鼓動が跳ねるのを感じた。
関東大会の一回戦で、手塚と対戦してから数日。
終わってからは、監督を交えて反省をしたり、下級生に活を入れ直したり、そんな煩事に紛れて、跡部は手塚のことを意図的に考えないようにしていた。
あの関東大会の試合の時の事を思い出すのが怖かった。
ちょっとでも思い出してしまうと、あの時の全身を揺るがすような興奮や、ネット越しでも全身を射抜いてくるような手塚の視線、苦しげな表情などが、まるでその場で見ているかのように、リアルに再現される。
そうすると、なぜか胸が苦しくなり、息ができなくなるような気がした。
あんな試合は………もう二度とないだろう。
それほど、自分にとって、かけがえのない素晴らしい瞬間だった。
だから、手塚の肩を自分が壊したことには後悔はしていなかったが、それでも、あの時の興奮と共に、手塚が苦しげに変貌していくさまを思い出すと、自分までどこかが壊れていくような、そんな得体の知れない不安を感じた。
壊れていくと言うよりは、どこか、自分が決定的に変化してしまったような、そんな違和感。
考えると落ち着かなくなるので、跡部は無理矢理頭の中から関東大会の記憶を閉め出していた。
しかし、かといって全く思い出さないわけではなく、ふとした瞬間に、脳裏に鮮やかに試合のの一場面が再現されて、途端に胸が苦しくなる。
今もそうだった。
手塚が宮崎に………という事を聞いただけで、胸が苦しくなった。
名状しがたい不安が胸の中に広がる。
手塚のことが気になって仕方がなくなる。
肩の具合は、実際にはどのぐらい悪いのだろうか。
まさか、……あの試合で手塚が再起不能になるとは思えない、が………。
それでも、宮崎まで行って入院するのでは、実際は深刻なのだろう。
どのぐらい、悪いのだろう。
いや、彼のことだから、心配などすることもあるまい。
絶対復活するにちがいない……………しかし。
表情が暗くなったのが分かったのだろうか、忍足が、申し訳ないというような口調で言ってきた。
「つまらん事聞かせて悪かったな。練習行ってくるわ」
「……………」
自分の方を気遣わしげに振り帰りながらコートの方へと向かう忍足の後ろ姿を、跡部は形の良い眉を顰めて、睨むように見送った。
跡部の自宅は、氷帝学園から電車で20分ほどの、山の手の高級住宅地にそびえ立っている。
洗練された街並みの一角に、広大な土地を所有し、ヨーロッパ調の重厚な邸宅を擁していた。
周囲もみなそれなりに邸宅が並んでいるが、その中でも跡部家は、特に広く、しかも贅沢な作りをしていて、周りとは一線を画している。
「お帰りなさいませ」
石造りの高い門の所に設置してある監視カメラで気づいたのか、さっと使用人が走り出て跡部を迎える。
が、跡部は眉を顰めたまま、黙って軽く手を上げて挨拶しただけで、広いエントランスからさっさと自室に上がってしまった。
鞄を乱暴に机の脇に放り投げると、ソファに身を投げ出すようにして腰を下ろす。
「………手塚……」
独り言が漏れ、はっと気づいて綺麗に弧を描く眉を寄せ、形の良い、薄い唇を噛み締める。
今度の土曜日に------という、忍足の言葉が思い出された。
土曜日というと、明後日だ。
そんなに急に………宮崎の病院が優秀なのか、それとも、手塚の容態が急を要するのだろうか。
考えると、息が吐けなくなり、跡部はソファに突っ伏して大きく肩で息を吐いた。
今まで意図的に考えることから逃げていたせいだろうか。
反対に手塚のことが頭から離れなくなると、不安なのか、焦りなのか、なにか得体の知れない感情が胸の中を支配して、居ても立ってもいられなくなる。
手塚は今頃何をしているんだろうか。
どこか、東京で入院しているのだろうか。
肩の治療とは、何をするんだろうか。
もしかして、手術が必要なほどなのか………。
何もかもが気になった。
一度気になると、ますます気になってどうにもならなくなった。
せっかう今まで手塚のことを考えないようにして、それで暮らしていられたのに……。
「……くそ…っ」
跡部は吐き捨てるように言うと、立ち上がった。
自室でじっとなどしていられなかった。
何かしなければ……少しでも、手塚のことが分かるように。
この、胸の苦しさから逃れられるように。
「ちょっと出かけてくる」
使用人にぶっきらぼうにそう言うと、跡部は氷帝の制服を着たまま家を飛び出した。
登下校には自宅からの送迎車か学校のバスを使うため、いつもは乗りもしない地下鉄を乗り継いで20分ほど、着いたところは手塚の家のある青春台だった。
手塚の家の所在地は知っていた。
以前、青春学園と練習試合をした時に、帰り際手塚が教えてくれたことがあったのだ。
既に日は暮れ、辺りは夕闇に覆われていたが、跡部は暗い歩道を俯き加減にむっつりとしたまま足早に歩いた。
まるで何かに追われているようだった。
急かされるままに、足だけが動く。
ふと気が付くと、手塚の家の前まで来ていた。
手塚の家は、東京でも古い家が続く戦前からの街並みに一角にある、和風の落ち着いた雰囲気の広い日本家屋だった。
風情のある木戸をがらっと引いて中に入り、それだけは最近付け替えたのだろう、真新しいインタフォンを押そうとして、そこで、電池が切れたロボットのように手が止まる。
気が急くままに来てしまったが、果たして、自宅に手塚がいるのか。
いたとしても、何を話せばいいんだだ。
いない確率の方が高いんじゃないのか。
入院しているかもしれない。
突然気後れがした。
こんな所まで来てしまって、…………いつもの自分じゃない。
………どうしたんだ。
急に不安で心許なくなる。
自分が自分じゃないような気がして、跡部は思わず後ずさった。
---------が。
「あら、……どなた?」
背後で声がした。
ぎょっとして振り返ると、神を肩ぐらいまでたらした、買い物帰りらしい中年の女性が立っていた。
「国光のお友達かしら? ちょっと待っててね?」
手塚の母親だろうか。
跡部を見て首を傾げながら微笑をし、玄関を入って手塚の名前を呼ぶ。
「………跡部……」
母親の呼ぶ声に応えて階段を降りて出てきた手塚が、驚いた声を出すのを聞いてはっと我に返り、跡部はどうしたらいいか分からずに強張った顔つきで手塚を見た。
手塚は、自宅で静養していたか、スェットの上下を着ていた。
手塚らしくなくやや乱れていて、髪も寝ていたような癖がついていた。
「国光、上がってもらいなさい。……どうぞ?」
機嫌の良い声に迎えられて、足が無意識に動く。
手塚の母は愛想がよく暖かな雰囲気だが、顔つきがどこか手塚に似通っていた。
その手塚の母から視線を移すと、玄関の所で立っている手塚と目が合った。
手塚は細く形の良い眉を、ほんの僅か寄せて、自分をじっと見つめていた。
その目は……あの試合の時とは違って、今は穏やかで、深い色を湛え、落ち着いていた。
急に自分が恥ずかしくなって、跡部は俯いた。
「跡部、こっちだ」
手塚の落ち着いた、低い声。
突然押しかけてきた自分の事を、彼はどう思っただろうか。
感情のうかがい知れない表情と、声。
不安がまた胸の奥を塞いで、苦しくなった。
なんで、こんな所に来てしまったんだ。
自分の事ながら、呆れるほどだ。
すぐに、帰ろう……とにかく、手塚の様子を聞いたらすぐに……。
手塚の後について階段を上がりながら、跡部はそう自分に言い聞かせていた。
跡部が乙女なラブラブものの予定
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