It's not a dream
《2》














「お友達が家まで来てくれるなんて、久しぶりなんですよ。どうぞゆっくりしていってくださいね」
手塚の母がトレイに茶と菓子を載せて運んできた。
いつも尊大な跡部も、さすがに礼をして受け取り、勧められるままに手塚の部屋の畳の上に腰をおろす。
居心地が悪かった。
自分の部屋とは比べるべくもなく狭い部屋と、畳という事もあったが、それよりも、狭いせいで小さなテーブルに手塚が跡部とかなり接近して腰を下ろしてきたのが、居心地の悪い一番の原因だった。
跡部は強張った表情のまま、手塚を横目で見た。
近くで見る手塚は、特に入院を要するほど酷い状態にも見えなかった。
肩も、ギプス類のものをしているとか、包帯を巻いているわけでもない。
よく見ると動作には確かに肩を庇っている様子はあったが、カップを持つ腕の動きもさほど違和感があるものではなかった。
カップを持って、安定した動作でそれを口に運んでいる。
それを確認すると、少しだけ心の枷が解けたような気がした。
「……飲まないのか?」
手塚の声にびくっとして、跡部は無意識にテーブルの上のカップを取った。
馥郁とした香りを漂わせた紅茶で、イギリス製の老舗のブランドのものだった。
(日本風なうちだが、結構紅茶とか凝ってんだな。さっきのお母さんの趣味かもしれねぇな…)
香りでそんな事を頭の隅で思って、それからまたはっとして、跡部は眉を寄せた。
気が緩みそうになる自分を叱咤して、気を取り直す。
ちょうど試合の時のように気を張り、手塚の一挙手一投足を観察する。
押し黙ったまま、自分を凝視してくる跡部に、手塚がふっと表情を緩めた。
「何か用事があるのか? わざわざうちまで来てもらってすまないな」
「……いや…」
「榊監督から何か言づてとかではないのか?」
「……ンなもんねぇよ…」
手塚の家に来た理由などないから、答えられない。
考えてみると、自分がさしたる用事もなく来るなど、手塚には予想も付かない事なのだろう。
いや、自分にとってもだ。
そう思い当たって、答えが見つからないままむすっとした表情で言うと、手塚が細い眉をやや寄せた。
「……用は別にないのか?」
「…ねぇよ」
ぼそっと呟いて、誤魔化しのようにカップの紅茶をごくりと飲む。
「……だが、今日来てくれて良かった」
手塚の返答に、跡部はカップを口から離して手塚を見た。
テーブルに向かって、手塚は跡部の斜め横に座っていたので、跡部はやや顔を横に向けている形になる。
跡部からは90度の角度にいる手塚の横顔が、少し微笑んだように見えた。
「…なんで?」
「実は今度入院することになった。………知っているのか?」
話を聞いても跡部が驚かない様子なのを見て、手塚が瞳を眇めた。
「あ、あぁ……。忍足に聞いた。宮崎の病院だってな」
「そうだ。明後日出発するんだ。そうしたら、こっちには当分戻ってこれないからな…」
「……どのぐらい、行ってるんだ?」
「それは今のところ不明だ。宮崎にある大学附属の病院に入るんだが、そこはスポーツ外来で有名な所で、リハビリも兼ねて滞在することになると思う」
「………なぁ、肩……治るんだろ?」
「……跡部?」
不安げな、心細い口調だったのだろう。
手塚がふと首を傾げて跡部を覗き込むようにしてきた。
薄い銀縁の眼鏡の奧の、切れ長の黒い瞳に見つめられて、跡部は息苦しくなった。
すっと視線を逸らし、瞬きをして俯く。
「………心配していたのか?」
「……もちろんだぜ…」
返答が掠れた小声になってしまった。
もっと、さりげなく、……別にそんな事自分は気にしてなどいない、というような返答するつもりだったのに。
「……大丈夫だ。宮崎で完璧に治してくる。また、お前と試合がしたいしな」
ドクン、と心臓が跳ねたような気がした。
「…………」
体温が急激に上昇したように熱くなった。
治るという言葉を聞いた安心からか、それともまた別の理由だろうか。
胸がどきどきして、その音が骨を伝って頭の上まで響いてくるようだった。
手塚に聞かれやしないか、と俯いたまま押し黙っていると。
「……跡部……」
ふと、今までにないような声音で、手塚が自分の名前を呼んできたので、跡部は思わず顔を上げた。
声音は、……いつもの落ち着いた声でもなく、かといって試合中の燃えたぎったものでもなく。
優しく、跡部の心に染み入るようなものだった。
顔を上げると、驚くほど近くに手塚の顔があった。
一瞬虚を突かれて動けないでいる所に、手塚の顔が更に近づいてきて、視界が遮られる。
唇に軽く、羽根で擽られるように触れたものがあった。
柔らかくて、暖かくて幾分かさついた感じで、触れた途端、そこからピリリっと感電したかのようだった。
「て、づか…………」
驚愕で声が出なかった。
吐息だけの掠れた声で、手塚の名前を譫言のように呟く。
手塚は視線を逸らさずに、跡部をじっと見つめてきた。
眼鏡の奧の瞳が、茶色の虹彩から中心の真黒の眼球まで、はっきり見えた。
虹彩がすっと窄まり、光が反射する眼球の表面に、自分の姿がシルエットとなって映っていた。
手塚の手が、跡部の手を静かに握ってきた。
暖めるかのように、存在を確かめるかのように、握っては緩め、また握ってくる。
目線が絡まり、痛みさえ感じるほどだった。
耐えられずにふっと伏し目にして視線を逸らし、跡部は漸くそこで息を吐いた。
「跡部…」
握られた手が熱かった。
心臓の脈動と共に激しく送られる血液の流れが、握られた手を伝って手塚に気づかれてしまいそうだった。
「良かったら、宮崎まで来てくれ。見舞いには遠すぎる距離だが、もし来てくれたら嬉しい」
「………い、いいのかよ…」
声が思うように出なかった。
どもりながら言うと、握られた手が更に強く握られた。
「待っている…」
もう一度、顔が近付いてくる。
俯き加減だった顔に合わせて、手塚が顔を傾け、跡部を窺うように覗き込んでくる。
息がかかるほど近くで見つめられて、全身がかぁっと熱くなった。
ぎくしゃくと手塚の方に顔を向けると、待っていたかのように、手塚の唇が跡部のそれに触れてきた。
(なんで………っ)
触れられて、押しつけられて、胸が破裂しそうになる。
唇を開くと、手塚が角度を変えて深く口付けてきた。
濡れた感触に、全身が甘く震えた。
頭の中にわんわんと耳鳴りのような騒がしい音がして、身体中の感覚が唇に集まったような、そんな感じだった。
この感覚は、あの関東大会での、手塚との試合中の感覚と、少しだけ似ていた。
身体中が沸き立ち、一瞬一瞬が止まったように感じられる。
周りの音がいつのまにか耳に入らなくなり、自分と手塚と、この世に二人だけしかいないような感じになる。
「…………」
唇が離れた後も、跡部は微動だにすることができなかった。
顔を離した手塚が、ふっと表情を緩め、瞳を細めて、笑いかけてきた。
「跡部、わざわざ来てくれてありがとう。……会いたかった……」
「…………」
「もっと話していたいんだが、今日は時間がない。来てもらって悪いがそろそろ帰ってもらえないか?」
「…………」
何か言おうとしたが、どうしても言葉が出なかった。
ぎくしゃくと頷くと、跡部は立ち上がった。
身体がふらつくような気がした。
「宮崎の病院については、メールを送る」
という手塚の言葉にも頷くことしかできなかった。
頭の中がまるで洪水にでも遭ったかのようにめちゃくちゃになっていた。
理性も筋だった考えも、気の利いた返答もできなかった。














そのまま手塚の家を押し黙ったまま辞して、跡部は夜の道を俯いたまま歩いた。
地下鉄に乗り込むと、いつになく疲れを感じた。
腕を組み、出入り口の窓に頭を押し当てて目を伏せる。
周囲の女子高生だろうか、盛んに自分の方を見てははしゃいでいる様子が目の端に入り、顔を背ける。
唇が………、熱かった。
さっき、確かに、ここに……。
ふと己の指が唇をなぞっているのに気づき、愕然とする。
触れていた指を噛んで、跡部は何度も瞬きをして眉を寄せた。
頭の中はまだ混沌としていて、何も考えられなかった。















乙女過ぎるのも程がありますが…