「やっぱり手塚、宮崎行ったみたいやね…」
微かなざわめきが木霊する、古い教会建築を模した氷帝学園の大きな図書室で勉強をしていた跡部は、忍足のその言葉に、シャープペンを走らす手を止めた。
跡部と忍足は、細長いステンドグラスを配した窓際で、古い重厚な机に向かって勉強をしている所だった。
氷帝学園の図書室は、本館の西側に位置する長い特別教室棟の北の一角を、1階と2階をぶち抜いて作られており、近現代的な建物の中にあるにもかかわらず、西欧の教会を模した意匠の、凝ったものであった。
西に面した窓からは、ステンドグラスを通して七色に変化した淡い午後の光が、深い焦げ茶色の机に広げられた白いノートを美しく染めている。
「……そうかよ…」
つとめて平静に装ったつもりだったが、忍足に気づかれなかっただろうか。
静かな図書室に、自分の心臓の鼓動が響きそうで怖かった。
「あんまり詳しいことは分からへんのやけど、きちんと治してくるみたいや」
「………別に、関係ねぇよ」
跡部の突き放したような言い方に、忍足が軽く肩を竦めた。
「つまらん話、すまんな。明日のテストの方が大事やね」
そう言って再び忍足がノートに向かい、自分から視線を外したのを感じて、ほっと気づかれぬように息を吐く。
気を取り直して、シャープペンを握りしめて先ほどから考えていた数学の難問の続きを解こうとしたが、さっきはもう少しで解答が分かる所まで来ていたはずなのに、全く解くことができなくなっていた。
「跡部、それ、分からんの? 教えてやろか?」
忍足が跡部のノートを向かい側から覗き込んできた。
「いらねぇよ。もう少し自分で考える」
もう少しで解ける所だったのに。
なぜかいらいらした。
不機嫌な調子なのが分かったのだろう、忍足もそれ以上何も言わずに、自分の勉強に戻っている。
軽く目を閉じ、跡部は首を振って顔を窓に向けた。
ステンドグラス越しに、太陽が淡い円形の七色の光になって見えていた。
手塚は………。
手塚が宮崎に行ってから、もう一週間ほど経っていた。
その間に、メールが一通だけあった。
簡潔に、事務連絡のように、病院の住所と、病室の番号、それに面会時間。
それだけが書かれたメールが、すぐに来た。
それに対して、跡部は返事を出さなかった。
何を書いていいのか分からなかった。
今までにもメールの遣り取りはしたことはあるが、それも練習試合の連絡など、ただの業務連絡のようなものだった。
だから、個人的に何を書いていいのか、分からなかった。
あるいは、何か、個人的に書こうとしたら、一体どんな言葉が出てくるのか。
それも怖かった。
勉強を終えて自宅に帰り、自室に戻ってベッドにごろりと寝転がる。
携帯を取り出して、跡部は手塚から送られたメールの画面を開いた。
『宮崎県宮崎市××2−15−2 青春学園大学附属病院 入院病棟 706号室 面会時間午後2時から5時』
これだけが書いてあるメール。
挨拶も、何もない。
「…………」
仰向けになって携帯をかざし、跡部はそれを睨むように眺めてから、携帯をぱちんと閉めて、身体の向きを変えて横になった。
(『跡部……』)
手塚と最後に会った時の、手塚の声を思い出す。
目を閉じ顔を振って、枕に顔を押し当てて、跡部は溜息を吐いた。
脳裏に手塚を思い出すと、胸がおかしな感じになった。
心臓が迫り上がってくるような、不安の入り交じった、しかし、どこか切なく甘い気持ち。
胸がいっぱいになって、それが溢れだして、心臓から血液に乗って全身に運ばれていくようだった。
手塚が自分に触れてきた時のことを、跡部は日に何度も思い出していた。
唇に、濡れた感触。
握られた手の熱さ。
「…バーカ……」
自嘲気味に呟いてみる。
が、胸がふさがったような気持ちは一向に治まらなかった。
治まらないどころか、ますます胸がいっぱいになってきて、呼吸ができなくなってしまうようだ。
「……くそ…っ」
大きく息を吸っては吐き、吐いては吸って、跡部は吐き出す息に込めて悪態を吐いた。
こんな気持ちは生まれて初めてだった。
(どうしたっていうんだ、俺は……)
ごろっと寝返りを打って、反対側を向く。
頬が火照って、頬に当たった枕がひんやりと感じた。
(こんなの、俺じゃねぇ…)
自分が自分じゃないようだった。
どんな時にも自分をコントロールできるのが、自慢の一つだったのに。
「……て、づか…」
声に出すと、あっという間に体温が上がったような気がした。
手塚に会いたい。
声が聞きたい。
……そう思ったら、一気に胸から気持ちが溢れてきた。
忌々しげに髪を掻きむしって、跡部は起きあがった。
やっぱり、駄目だ。
家でぼんやり過ごしている事などできなかった。
ベッドサイドに置かれた内線電話を乱暴に掴むと、出てきた使用人に、ぶっきらぼうに宮崎までの飛行機の手配をするように言って、がちゃん、と受話器を置く。
その日は金曜日だった。
思い立ったらもう一日でも堪え切れそうになかった。
(明日………別に、かまわねぇよな…)
手配を頼んだのは明日の宮崎までの往復の航空券だった。
(すぐにメール送ってきたって事は、見舞いに来てくれって事だよな…。手塚だって、待ってるって言ってたじゃねぇか。……氷帝の代表って事で行けばいい……)
などと、なぜか胸の中でいろいろと言い訳を考えている自分に気が付いて、跡部は眉をぐっと顰めた。
言い訳など、普段の自分だったら絶対にしないような、情けない事なのに。
「………」
苛々して、ベッドに拳を叩きつけて、溜息を吐く。
頭をくしゃくしゃに掻き回して、跡部は携帯をベッドサイドに乱暴に放り投げた。
次の日、跡部が病院に行ったのは午後2時過ぎだった。
昼に羽田から飛行機に乗り、宮崎空港からは出迎えのタクシーで直行した。
全て手配済みだったので、東京から実質2時間弱だった。
何か見舞いの品を持って行った方がいいのかとは思ったが、そんなもの持って行っても手塚が喜ぶまい、という理由で跡部は何も持って行かなかった。
自分が見舞いの品など持っていけるか、という気持ちもあった。
しかし、さすがに花ぐらいは必要だろうと、跡部はタクシーの運転手に花屋に立ち寄らせて、なんでもいいと適当に見舞い用の花束を作ってもらった。
病院は5階建ての外来棟と、10階建ての入院棟に分かれた、大きなものだった。
タクシーを外来棟の入り口付近で降り、見上げるような透明の自動ドアをくぐる。
午後で外来患者の数は少なくなっているとはいうものの、インフォメーションにも数人の人がおり、入り口向かって左側の、南の大きな窓に面したロビーには、品の良いテーブルと椅子がいくつもあって、そこに座っている人も何人もいた。
「………」
辺りを睥睨するかのように見据えて、跡部は尊大に頭を動かし、入院棟への通路からエレベータに乗った。
跡部が行くところはどこでも大抵そうだが、この病院でも、案内のカウンターに座っている若い女子事務員や、外来患者だろう、若い女性が、跡部をうっとりとした目つきで眺めている。
それらには一顧だにせずにエレベータに乗ると、7階を押す。
軽い電子音がしてエレベータが動き始め、どの階にも止まることなく7階に着いた。
エレベータから降りると、すぐ横がナースステーションだった。
降りてきた跡部を見て、ステーション内の看護師たちもざわめく。
白薔薇がメインの花束をぞんざいに抱え、薄茶色の髪を気怠げに揺らして廊下を歩いていく跡部の姿には、誰もが目を奪われたようだった。
7階に着くとさすがに跡部は緊張が増して、周囲の視線に敏感になっていたから、自分を見つめてくる複数の視線に気づき鬱陶しげに眉を顰めた。
視線を振り払うようにして、手塚の病室へ向かう。
706号室は個室で、ドアの所に手塚国光、と名前の書いたプレートがあった。
「………」
いるだろうか。
いなかったらどうする。
いや、とにかく、入らねえと……
入らないと、背後からの視線がうざったい。
眉を寄せたまま、跡部はドアノブをぐっと掴んだ。
どこでも注目の的の跡部って感じにしてみました
|