牢籠
−rourou− 《1》











「最近なんだかぼんやりしてる事が多いっすね、柳先輩?」
不意に背後から話しかけられ、柳ははっとして我に返った。
途端に、テニスコートの喧噪が耳に飛び込んでくる。
振り返ると、ベンチの後ろに切原赤也立っていた。
「大丈夫っすか? またぼんやりしてたでしょ?」
そのようだった。
周りを見ると、いつの間にか先ほど自分が見ていた時に部員達が行っていた練習メニューは既に終了したようで、別メニューが行われている。
どのぐらい、ぼんやりしていたのだろうか。
柳は形の良い細い眉を顰めた。
「もうすぐ練習終わりっすよ?」
「…そのようだな」
ベンチから立ち上がり、いつの間にかベンチの前に落としていたラケットを拾う。
立ち上がって伸びをして、軽く溜息を吐く。
ここ2,3日、どうも変だった。
何をしても落ち着かず、心ここにあらず、という感じでいらいらする。
授業を受けていても、部活をしていてもだった。
いつも冷静で穏やかな柳が珍しく苛立っている様子に、仲の良い柳生なども何かあったのか、と言ってきたぐらいである。
(何か、…か……)
確かにあった。
(俺は弦一郎と…)
柳は軽く頭を振った。
視界に、隣のコートで部員達に指図をしている真田の姿が入ってきた。
--------------真田弦一郎。
柳の親友であり、中学テニス界最強の、『皇帝』。
真田は柳に背を向けていたので、柳からは、真田の帽子からはみ出た短い黒髪や太い首、がっしりとした肩やジャージ越しの引き締まった腰が見えた。
ジャージの上からでも、筋肉がはっきりと分かる素晴らしい身体。
それを柳は3日前に、あのジャージの下の素肌をまさぐり、抱き締め、堅く逞しい身体を己の下に組み敷いて、彼を抱いたのだった。
(……………)
息が詰まって胸が苦しくなる。
どうしてあんな事をしてしまったのだろうか。
………3日前からもう何回も繰り返した問いを、柳はまた心の中で繰り返した。
真田のことは尊敬し敬愛し、かけがえのない親友だと思っていたが、だからといって、身体を重ねようなどとは毛頭思ってもいなかった。
そんな事は、あの最中でも考えていない。
あの時は頭の中が真っ白になっていた。
何も考えられないままに、真田に圧し掛かっていってしまった。
……とは言え、真田と関係したのは事実である。
自分は、真田のことをそういう目で見ていたのだろうか……。
-------------まさか。
柳は既に何回したか分からない自問自答をまた繰り返した。
3日前から、この、答えの出ない問いをしてばかりだ。
考えれば考えるほど自分が分からなくなり、真田のことも分からなくなる。
そして苛立ちだけが残った。
「柳先輩、集合かかってるっすよ?」
隣のコートでは部員達が集まっていた。
ラケットを手に持ったまま、切原の後に続いて走り、整列する。
「今日の練習はここまで。今日の当番はコートの後始末をしっかりとやるように」
真田の冴え冴えとした低いバリトンが響き渡る。
ストイックで、己にも他人にも厳しい、いつもの真田だ。
自分の身体の下で、熱い時間を共有していた時の彼とは別人の………。
(………)
また胸が苦しくなった。
俯いたまま、柳はレギュラー達に続いてコートを出た。














疲労が溜まっていたのだろうか、レギュラー専用の部屋でシャワーを浴びると眩暈がするような気がした。
「柳ー、帰らないのか?」
と言ってくる丸井達に、少し休んでから帰る、と言って、部屋の壁際にそって置かれた大きなソファに腰を下ろす。
タオルで濡れた頭を拭きながら、レギュラー達が出て行くのに挨拶をしていると、数分して部屋には柳以外誰もいなくなった。
「ふぅ……」
一人になるとどっと疲れが出てきて、柳は目を閉じてソファの背凭れに身体を預けた。
身体の奧に澱が溜まったように、疲れている。
疲れているのに、どこか身体が火照ってもいるようで、落ち着かなかった。
3日前から、真田とはろくに言葉を交わしていなかった。
教室でもなんとなく気まずいままに、自分から言葉を掛けられず、部活でも真田から言葉をかけてこないのをいいことに、自分からは話しかけていなかった。
暫く目を閉じて天井に顔を向けたあと、今度は俯いて膝に肘を突き、額を両手で押さえて溜息を吐く。
いつまでもこう考え込んでもいられない。
あの時のことはすっぱりと忘れてしまえばいい。
きっと、尋常ではなかったのだ。自分も真田も。
……そうだ。
だから忘れてしまえばいいのだ。
忘れて、今までと同じように、真田に接するようにしなくてはいけない……。
額に寄った皺を指で揉むようにしながらそう考えていると、不意にカチャリ、と扉を開ける音がした。
はっとして顔を上げると、そこには今の今まで考えていた人物が立っていた。
「……蓮二…」
誰か残っているとは思っていなかったのだろう。
真田がやや驚いたように目を見開いて呟いた。
「……帰ったのではなかったのか?」
「あ、あぁ、…ちょっと疲れたので休んでいたんだ。……お前は?弦一郎……もう部誌などつけ終わったのか?」
狼狽した心を悟られないように、努めて平静に声を出す。
扉を後ろ手に閉めて、真田が部屋に入ってきた。
「あぁ、俺の方は終わった。ここ以外の戸締まりもしたしな」
そう言ってカツカツと大股に歩いて、自分のロッカーの前に行くと、帽子を脱いで、ロッカーの扉の裏側のフックにかける。
さらりとした艶やかな黒髪が流れ、日に焼けた項が柳の目に入る。
ドクン………。
不意にうねりのように興奮が突き上げてきて、柳は動揺した。
息を飲み、身体を強張らせる。
柳には背を向けて、真田がポロシャツをたくしあげる。
引き締まった腰が露わになり、背筋がうねり、背筋が動き、鍛えた背中が露わになっていく。
肩胛骨が盛り上がり、両手を上にあげてシャツを脱ごうとする真田の脇の下の、黒々とした脇毛が目に入って、柳は息を詰め、身体を強張らせた。
………俺は、変だ……。
今まで、真田の裸体など、何回も見てきたのに。
何回も見てきてなんともなかったのに、どうして急に……。
無理矢理視線を逸らそうとする。
-----------が、できなかった。
まるで視線を固定されたかのように、真田の背中から目が離せない。
シャツを首から抜き取り、上半身の汗を拭こうとしてタオルを手に取った真田が、ゆっくりと振り向いてきた。
……視線が絡み合う。
息がが吐けなかった。
苦しくて肺が悲鳴を上げそうだった。
真田の涼やかな焦げ茶の瞳が、すうっと眇められる。
黒い睫が瞳に覆い被さり、得も言われぬ風情を醸し出す。
「蓮二……」
甘く響く、艶のある声。
タオルを肩に掛けた格好で、真田が静かに近づいてきた。
真田の汗の臭いに、くらっと視界が揺れるような気がした。
「……どうした、蓮二…?」
低く、濡れた声。
腰が重くなり、動悸が全身を駆けめぐる。
(どうして、身体がこんなになるんだ……?)
柳は呆然としていた。
おかしい。
……俺はおかしい。
親友に、興奮しているなんて。
同じ男なのに、……尊敬する友相手に、どうして……?
「さ、わるな…」
漸くのことで絞り出した声はひどくしゃがれていた。
真田がすっと瞳を細めた。
「蓮二、……違うだろう…?」
すっと手が差し伸べられる。
自分の手が掴まれ、その手がしっとりと滑らかな真田の裸の胸にあてられるのを、柳は呆然としたまま見守った。
指が震える。
弾力のある肌の感触に、指先が燃える。
「げん、いちろう…」
「本当のことを言ってみろ。……俺を、どうしたいんだ、蓮二……」
甘い囁きに、目の前が霞む。
言葉を紡ぐ、些か分厚い唇が、濡れて光る。
「お前、を…」
柳は譫言のように繰り返した。
「…れんじ…」
真田の黒く濡れた瞳に、自分の顔が映っている。
呆然とした様子で、唇を震わせている自分が。
「…ほしい…」
無意識のうちに声が出ていた。
まるで他人のように、その声は耳に入ってきた。
真田が微かに微笑んだ。
形の良い眉が少し下がり、瞳がすっと細くなり、唇が微笑みを形作る。
はらり、と前髪が瞳にかかり、その黒曜石の瞳が瞬きをする。
「弦一郎…」
誘われるように顔を近づけていた。
「蓮二……」
この唇に口付けたい、と、俺は思っていたのだ。
そう、3日前からずっと-----------ずっと心の奥底では。
考えないように、意識の表面に出てこないように封印していたけれど、本当は……。








瞳を閉じ、柳は深く唇を合わせた。
















牢籠→他人を思い通りに使うこと