病室は、淡いベージュでまとめられた清潔で明るい部屋だった。
ブラインドが半分降りた窓際に、壁から50センチほど離れてベッドが置かれており、反対の壁にはテレビや冷蔵庫、小さなロッカーなどがきっちりと配置されていた。
手塚はベッドではなく、手前の椅子に腰掛けて、テーブルに肘を突き、何か雑誌のようなものを読んでいた。
顔を上げて自分を見て、その眼鏡の奧の切れ長の黒い瞳が一瞬大きく見開かれる。
「…跡部。……来てくれたのか? ……遠いところ、有難う」
久しぶりに聞くバリトンの響く声に、跡部は緊張がぷつっと解け、やんわりと心の中が満たされていくのが分かった。
「あぁ、来てやったぜ……ほら、これ…」
気恥ずかしくなって何を話せば良いか分からなくなり、歯切れ悪く口籠もりながら、花束を乱暴に差しだす。
「……気遣いすまないな」
手塚が立ち上がり、自分に近づいてきて花束を受け取るのを、跡部は正視できず僅かに目を逸らした。
入院しているとはいえ、手塚は十分健康そうだった。
「何か飲むか? 何時までいられるんだ?」
椅子を勧められ座ったところに、茶が出される。
「べつに……泊まっとこもあるし、何時でも大丈夫だぜ…」
円テーブルを囲んで、隣に手塚が座ってきた。
ちらちらと横目で見ながらそう答えると、手塚が表情を緩め、微笑んだ。
「申し訳ないな。……だが、お前に逢えて嬉しい。………肩の方は順調に治ってきているので、心配しないでくれ」
「べつに、心配してねぇよ。お前が大丈夫って言うんなら大丈夫だろうしな。……嘘吐かねえだろ、おまえ…」
「あぁ、そうだな。……だから、お前に逢えて嬉しいというのも本当だ」
「………そーかよ…」
急に胸がどきどきしてきてしまった。
なんだか、自分が自分ではないようだ。
今まで誰かと話していてこんなに胸がどきどきしたり、返答できなくなるような事はなかったから、跡部は本当に困ってしまった。
どうしたらいいだろう。
もっと如才なく、手塚が飽きないように話さなければ。
「…跡部……」
と、その時不意に肩を抱き寄せられ、跡部は茶椀を手に持ったまま、手塚の方に倒れ込んだ。
「お、おいっ、危なえよっ。茶がこぼれ…っ!」
慌てて茶碗をテーブルに置き、手塚に向かってそう言おうとして、途中で言葉が出なくなった。
手塚が跡部の唇に、唇を軽く触れあわせてきたのだ。
「て、づか……」
軽く触れた唇はすぐに離れていった。
震える声で名前を呼ぶと、再度唇が触れてきた。
同時に、手塚の腕に抱き締められて、跡部は一気に全身が熱くなった。
展開が早くて、自分の気持ちが追いつかない。
手塚とこういう風に触れあいたいと思っていたけれど、手塚は真面目で堅い人間だから、どうやって手塚に触れたらいいのだろうか、自分から積極的にいかないと駄目だろうなとか思っていたのに。
それなのに、手塚に迫られている形になっている。
手塚がこんな風に自分に触れてくるとは……まだ信じられない。
「跡部、……お前が宮崎に来なかったら、あきらめようと思っていたのだが……。来てくれたからには、もう遠慮しない…」
唇が触れあう距離でそう言われて、跡部は頬があからさまに赤くなるのを感じた。
体温が1,2度上がったようで、顔が熱くてたまらない。
「バ、バーカ……」
と、掠れた声で言ってみたものの、声自体が震えてしまった。
「跡部…」
今度は深く口付けられ、跡部は思わず目を閉じた。
歯列を割って舌が入り込み、強く吸われて眩暈がする。
手塚にしがみつくように、自分も回した腕に力を込めると、それに答えるように手塚の舌が深く跡部の口蓋をなぞり、跡部の舌に巻き付くように絡まってきた。
甘くて、くらくらするような味がした。
舌が痺れて、じいんとしたその痺れが全身に伝播する。
手塚の息づかいや、体温や、体臭に、全身が総毛立つほどの興奮を覚える。
「っ……ッ!」
思わずごくり、と唾を飲み込むと、それを感じ取ったのか、手塚が跡部を抱く腕の力を強めてきた。
「だ、駄目だって……肩、傷めっちまうだろ……」
唇が離れた瞬間に、慌ててそう言って離れようとするが、言葉ではそういうものの、手塚に抱きついている自分の腕が離れなくて、跡部は困惑した。
「跡部、……肩は心配いらない。加減している」
「そ、そうならいんだけどよ…」
羞恥を覚えて、伏し目がちにぼそりと呟くと、手塚が跡部の頬から目尻に掛けて唇を寄せてきた。
「くすぐって……って…」
黒子を舐められて肩を縮め、くすぐったさを堪える。
目を閉じて手塚の愛撫に身を任せていると、なんとも表現しようのない幸福感が湧き上がってきて、その感情の強さに跡部は圧倒された。
こんな、些細なことなのに、こんなに嬉しいなんて。
こうして、一緒にいて、触れあっているだけでこんなに幸せな気持ちになるなんて。
-------------知らなかった。
このままずっと、こうしていたい。ずっと、手塚と一緒にいられたら……
(………)
--------コンコン。
どのぐらいそうして二人で抱擁しあっていただろうか。
ドアをノックする音に気が付いて、跡部ははっと我に返って慌てて手塚から離れた。
ドアが開いて、薄い水色の看護師の制服を着た女性が入ってきた。
「お薬の交換の時間ですよ」
銀色に光るトレイをカートに乗せて入室してきた看護師が、てきぱきと手塚の肩の包帯を解いて貼ってある湿布を取り替えるのを、跡部は心ここにあらず、という風にぼんやりと眺めた。
看護師と手塚の会話が耳を通り過ぎていく。
「あの方、手塚君のお友達ですか?」
「はい、そうです。わざわざ東京から来てくれました」
「それは良かったですね。面会時間はもうすぐ終わってしまうんですが、それまでごゆっくりどうぞ」
面会時間と言われてはっとして部屋に掛かっている時計を見ると、あと20分ほどで面会時間が終わりだった。
ここに入ってきた時から、既に1時間ぐらい経っている計算になる。
(……そんなに抱き合ってたのか、俺…)
時間が経っていたことに愕然としながらも、先ほどの抱擁を思いだしてまた身体がかぁっと熱くなる。
手塚に触れていたくて、手塚の体温を感じたくて、たまらなかった。
が、一旦離れてしまうと、手塚に触れるのが非常に困難な事に思えた。
「……んじゃ、……そろそろ、帰る…」
看護師が出て行ったあと、うまく話しかけられず、手塚から視線を逸らしたままそう言うと、手塚が椅子から立ち上がった。
「そうか。……今日は来てくれて嬉しかった。俺も宮崎からもうすぐ戻れると思う。……戻ったら、また向こうで会いたい」
「………あぁ…」
歯切れ悪い答えに、跡部は自分ながら焦れったくて仕方がなかった。
(あぁ、じゃねえだろ! もっときちんと答えろよ。俺も会いたい、とか言えよっ!)
と、心の中で自分を叱咤するのだが、どうしても言葉が出ない。
「跡部……」
ふわっと手塚の匂いがして、甘い眩暈がした。
抱き寄せられて、気が付いてみると、手塚が自分の頬を両手で挟んでいた。
至近で見つめられて思わず視線が泳いでしまう。
頬がかっと熱くなって、涙腺まで緩んでしまったらしい。
目が潤んで視界がぼやけた。
「本当に、来てくれて嬉しかった。次は東京で」
「…早く、戻ってこいよ」
とだけ漸く言えた。
手塚がふっと微笑し、静かに自分から離れていく。
その瞬間、跡部は寂しくて手塚にすがりつきたくなる自分を抑えるので必死だった。
手塚が好きだ。
一緒にいたい。
手塚に触れたい、触れられていたい。
もっと、強く--------------!
「……東京でな」
跡部の気持ちが伝わったのだろうか、まるで跡部の心の中の言葉に返事をするかのように手塚が囁いたので、跡部は一気に赤くった
「バッ、バーカッ! んじゃ、帰るぜっ!」
持ってきたバッグを掴んで一目散に逃げるように病室を後にする。
走ってはいけない病院の廊下を走り抜けエレベータに乗って、心臓が胸から飛び出しそうになるほどどきどきさせながら、病院を後にする。
待っていた迎えのタクシーに乗り込み、空港に着いても、まだ胸の動悸は治まらなかった。
手配されていたチケットを受け取って、飛行機に乗り込んでもまだ治まらなかった。
結局、跡部の胸の動悸が治まったのは、離陸してシートベルト着用の表示が消えたころだった。
乙女すぎですかね
|