青嵐
 《1》












数日続いた梅雨の雨が上がり、青空が垣間見える7月の午後。
湿気を含んだ風が些か鬱陶しかったが、それでも雨上がりの街はどことなく空気が澄み、人々の心も軽いように思われる。
普段は患者たちが重苦しい雰囲気を醸し出している病院においても、心なしか人々は大きなガラス窓の外を眺めて晴れやかな表情をしているように見えた。
「……番号札12番の方」
「はい」
事務員から受付番号を呼ばれて、手塚は待合室のソファから身を起こした。
××医科大学付属病院。
東京でも神奈川に近い所にあるその総合病院は、全国屈指のスポーツ医学外来を持つことで知られている。
その方面では名高い専門医と、充実した検査機器が有名であり、全国各地から診察や入院希望の患者かひきもきらずやってくると言うことだ。
手塚は、昨日、宮崎から飛行機で東京に戻ってきていた。
この病院で精密検査を受けるためである。
関東大会一回戦、跡部との試合で痛めた肩の具合は、宮崎でゆっくりと治療やリハビリを続けた結果、経過も順調だったが、その回復状況を確認するための検査である。
既にカルテや詳しい経過等々は病院経由でこちらの大学病院には送られており、手塚は身体だけ来れば良かった。
午前中に来診し、普通の体重身長測定から、単純X線検査、CT、MRI、それに筋電図検査、神経伝導速度検査、骨密度検査等々を受け、全ての検査が終了したのは午後2時を回っていた。
朝から秀直も食べずに検査を受けていたので、終わったときにはさすがに空腹を感じた。
名前を呼ばれて受け付けまでいき、事務員から、結果を聞きに明日も受診すること、と、昼食券を手渡される。
その日はそれで終わりで、手塚はもらった昼食券を手に、病院内のレストランに向かった。
















その病院のレストランは外来患者を診る病棟の方ではなく、庭を隔てて、入院病棟と検査病棟の合間にあった。
独立した瀟洒で近代的な1階建ての建物に、レストラン・コンビニ・美容室・書店等々、入院患者や付き添いの人たちが病院から外に出なくても暮らしていけるだけのものが揃っている。
レストランは、人間ドッグなどで検査にやってきた人々も利用しているようで、午後2時を回っていたにもかかわらず、清潔で広い内部には、丸いテーブルごとに背広姿のサラリーマンやスーツ姿のOLが独りずつ座って黙って遅い昼食を食べていた。
昼食は、数種類のセットの中から選べるようになっている。
手塚は昼食券を差しだして、セットの中から魚の煮付けを選んだ。
ご飯や味噌汁、おかず等々が乗ったトレイを受け取ると、レストラン内を見回す。
あいにくと窓際は空いていなかったが、奧の壁際の丸テーブルが一つ空いているのを見つけ、そこまで歩く。
テーブルにつき、壁を背にして座ると、香ばしい匂いをあげている珈琲を手に取り、ゆっくりと口に含む。
昨日宮崎から東京まで移動して、今朝は朝食を食べずに病院で朝から検査をしていただけに、馥郁とした香りと苦みのある味わいが味覚を刺激し、手塚は瞳を閉じてそれを味わった。
「さて、食べるか……」
独りごち、箸を手に取ると魚の煮付けに箸を付ける。
普通病院食というと味が薄く不味い、と想像しがちだが、ここの食事は薄味ながらも美味しかった。
空腹だった事もあり、しばらく夢中で食事に没頭し、あらかた食べ終わると、軽く息を吐く。
珈琲でも飲んで少しゆっくりしてから出るか、と思って顔を上げた時、手塚は、ちょうどレストランに入ってきた二人連れを見つけた。
車椅子に乗った、パジャマにガウンを羽織った入院患者と、連れの学生服の男。
「……真田……」
意外なところで意外な人物を見つけ、一瞬見間違いかとその二人を凝視する。
が、間違いなく真田だった。
立海大附属中の真田弦一郎。
それから、車椅子に乗った入院患者の方は………
(幸村精市か……)
柔らかくウェーブした黒髪と、白く細い面立ち。
随分やつれたようではあるが、見覚えがあった。
1,2年の時に試合を観戦した事もあるし、話したこともある。
その時は精悍な顔つきをしていたが………。
入院したとは聞いていたが、この病院だったのか。
神奈川との県境にある病院だから、可能性はあるのだが。
それにしても意外な邂逅に手塚は驚きを禁じ得なかった。
自分が今ここにいる事を知ったら、驚くだろう。
幸い、手塚が座っているテーブルは壁際の奥まった所なので、真田や幸村が座った入り口付近の窓際の席からは見えない。
窓際に行かず壁の方から帰れば見つからないだろう。
自分が今、ここにいることは---------今更知られたからといって困る事でもなかったが、面倒な事は避けた方がいい。
そう判断して、手塚は身を隠すようにしながら、二人の様子を窺った。
真田がトレイを持って席に戻ってくる。
トレイの上には湯気の立つカップとケーキが乗っていた。
軽い午後のお茶でもするらしい。
自分も珈琲を飲みながらその様子を見る。
真田は、手塚が見たこともないほど柔和で優しげな表情をしていた。
あんな表情もするのか……。
手塚は意外な感に打たれた。
いつも、猛禽類のように他を睥睨し、口許を引き締め、相手を萎縮させる彼が。
幸村のカップにミルクを入れ、掻き回してやり、ケーキのフォークを幸村に差しだしている。
幸村がカップに口を付け、少し飲むのを見守り、一口呑んだ幸村が顔を上げて微笑みかけるのに合わせて、微笑んでいる。
(……………)
手塚は我知らず秀麗な眉を顰めた。
胸の中に、何か不快な塊のようなものが込み上げてくる。
いったい、なんだろう。
………手塚は微かに動揺した。
幸村がケーキを食べ始めた。
それに合わせて真田もケーキにフォークを入れ、口に運んでいる。
幸村が軽く咳をする。
真田はフォークを置き、幸村を気遣うように背中を撫でる。
同じ学校の部員だから、というのだけではなく、信頼と友愛で強く結びついた二人。
手塚の目には、二人はそのように映った。
カタ……。
二人に気づかれないように手塚は立ち上がると、壁際を隠れるようにして歩いた。
柱を擦り抜け、入り口をまるで逃げるようにして出る。
「………」
出るとどっと疲れが来て、手塚は頭を振り、レストランの前のロビーに設置してあるソファに座り込んだ。
胸が………むかむかした。
あんな真田は、今まで見たことがない。
見たことがない事が、手塚を不快にしていた。
この間……手塚が宮崎へ旅立つ前の日の夜、真田ははるばる横浜から手塚に会いに来た。
突然の来訪に戸惑った手塚を、真田は乱暴にかき抱き、熱い告白をして、帰っていった。
あれはいったいなんだったんだ。
ただのからかいか。
あの時の、耳元で囁かれた熱い告白。
強い抱擁。
力強く抱き締められ、口付けられた時の熱……。
「ばかな……」
手塚は首を振った。
何を考えている。
(おかしいぞ、俺は……)
俯いたせいで垂れ下がった前髪を掻き上げ、溜息を吐く。
帰ろう。
今日はもう病院での用事は終わりだった。
あとは明日もう一度来院し、検査の結果を聞く。
そうしたらまた宮崎に戻るという予定だった。
肩を落として溜息を吐き、立ち上がって外に出ようとした時、レストランから車椅子が出てきた。
はっとして手塚はロビーの自動販売機の陰に隠れた。
車椅子に乗った幸村と、それを押す真田だった。
そっと、壊れ物でも動かすように慎重に車椅子を動かす真田は、いつもとは別人のようだった。
荒々しく、暴力をも辞さない彼とは思えないほど繊細で優しい。
真田が逞しい上半身を屈めて幸村に話しかけ、幸村が瞳を細めてくすと笑う。
二人だけの、何か秘密の話だろうか。
顔を近づけ、幸村の耳元に囁き、幸村がくすぐったそうに首を縮めている。
二人はそのまま手塚が隠れている方角とは反対方向、入院病棟の方へと去っていく。
エレベータ乗り場の所で立ち止まり、しばしエレベータが降りてくるのを待ち、乗り込む。
二人がエレベータに乗り込んだのを見て、手塚は静かな廊下を走った。
エレベータ乗り場まで走り、階数をしめす番号が点滅するのを見上げる。
エレベータはすっと上がっていき、5階で止まった。
階数表示の説明をみる。
5階は神経内科病棟だった。
「……………」
眉間に皺を寄せ、手塚は再度溜息を吐いた。