結局、神経内科のある5階まで来てしまった。
入院病棟は、外来とは違って人も少なく、エレベータを降りた所にはソファが置かれ、窓からは明るい午後の陽射しが差し込んでいるものの、誰もいなかった。
エレベータの反対側にはこの階の受付とナースステーションがあり、看護したちが静かに立ち働いている。
………どうするか。
上がってきてしまったものの、来てどうする、という当てもない手塚は溜息を吐いた。
幸村の病室を探して見舞いに行くようなつもりもなにもない。
ただ、なんとなく上がってきてしまったのだ。
幸村とは、昨年の全国大会のおりに話した事があったが、それ以降、彼が病気に倒れてからは会っていない。
だから、ここで見舞いというのも変な話だ。
というよりは、自分がここにいる、という事自体幸村は知らないはずだし、自分だって幸村がこの病院に入院していた事など知らない。
こんな状態で見舞いなど行ったら不審がられるだけだ。
(………)
手塚は軽く首を振った。
帰ろう。
エレベータで帰るのは今昇ってきたばかりで体裁が悪く思えた。
非常階段で帰るか。
そう思って天井に付けられた標識に従い、非常階段の方へと歩く。
階段の横にトイレがあった。
何気なしにトイレに足を向けたのは、そのまま帰るので自宅までトイレに行けないから、その前に用を足しておこう、という軽い気持ちだった。
──が。
(……真田)
トイレに入った途端、洗面台に見覚えのある短髪を見つけて、手塚は思わず息を飲んだ。
背後から人が入ってきた気配に、真田も気づいたようだった。
洗面台の鏡に映った姿を見て、一瞬ぎょっとしたように、瞳を見開く。
「…手塚…?」
真田の方もかなり驚いているようだった。
無理もない。
自分は今宮崎に行っていて、ここ東京にいるはずもないのだから。
あまつさえ、こんな所には。
暫く沈黙が続き、破ったのは真田の方だった。
ゆっくりと背後を振り向き、手塚を見つめる。
「……奇遇だな」
一言、耳に甘く響く低い声で話しかけられ、手塚は息が苦しいような緊張を味わった。
以前、自宅で聞いた声と同じ調子。同じ強さの声。
「あ、あぁ…」
返事が強張る。
「…どうしてここにいるんだ? お前は九州へ行っていたのではないのか?」
「…検査を受けるために、一旦戻ってきている」
「なるほど。そう言えばここはスポーツ外来が有名だったな」
洗面台に腰をかけ、腕組みをして、真田が手塚を見つめてくる。
猛禽類のように鋭い視線で、服の下まで見通すような目で。
かっと身体の奥底が熱くなったような気がして、手塚は僅かに視線を逸らした。
服の下の……肌が刺すようにちりちりとする。
粟立って、服に擦れて痛いような気がする。
下半身に、…知らずに血が流れ込んでいく。
(……なにを…)
心中の狼狽を悟られまいと、殊更表情を硬くする。
「俺は、ここに友人が入院していてな」
そんな手塚の内面を知ってか知らずか、真田が静かに声を出した。
「お前も知っているだろうが、うちの部長の幸村だ」
「………」
手塚の沈黙を、自分の話を聞いているからだと思ったのか、真田は手塚の様子を特に気にしたふうでもなく、手塚を見てふ、と笑った。
「しかし、お前と逢えるとは、嬉しい。これから診察か?」
「いや。もう終わった。帰るところだ」
「そうか……」
真田がかつ、と靴音を響かせて、手塚の側に近づいてきた。
真田が近づいてくると、胸がどきん、と跳ねる。
射竦めるように自分を見据えてくる黒い双眸。
胸が。……苦しい。
「俺は見舞いにきたんだが…」
真田が瞳を細めた。
すぅ、と虹彩が狭まり、深い色が一層濃く深くなる。
「今日はやめておこう。それより、お前と久しぶりに話でもしたい。どうだ?」
「………」
幸村の見舞いをやめて、自分と話すのか。
胸の奥が怪しくざわめいた。
強張った表情のまま頷くと、真田が視線を和らげた。
「せっかくだから、お前の家に行きたいものだ。俺も今日は見舞いのために学校を早退したし、部活も出ない。時間はたっぷりある。どうだ?」
「……あぁ、そうだな…」
自宅。
自宅に真田を呼べばどうなるのか。
──分かっていたような期がした。
息が苦しくなる。
真田の視線が、己の心の奥底の醜い欲望まで照らし出しているように思えた。
手塚は僅かに視線を逸らして頷いた。
手塚の自宅までは電車で20分ほどだった。
平日の午後と言うこともあり、自宅周辺は人通りも少なく、梅雨の晴れ間の柔らかな陽射しが降り注いでいる。
家には誰もいなかった。
母親や祖父も夜まで帰ってこない。
手塚は玄関の鍵を開け、真田を中へ招き入れた。
「誰もいないようだな」
「あぁ、昼間は出かけている」
些か強張った声で答えると、真田がふっと笑った。
「何を警戒している、手塚…」
「…別に、警戒など…」
「そうか?」
不意に手を取られ、手塚は驚愕した。
「警戒しているわりには、隙があるな、手塚」
乱暴な動作で抱き寄せられ、真田の腕が背中に回ってくる。
熱い吐息が耳朶にかかり、手塚は思わず息を飲んだ。
身体が……かっと熱くなる。
胸がどくん、と大きく跳ね、全身に鼓動が地震のように伝わっていく。
(駄目だ……)
手塚は心の中で呻いた。
このままでは…俺は……。
「部屋に、行こう。お前の部屋に…」
その時、耳元で囁かれた。
真田を跳ね除けようとした腕が、力を失う。
真田が静かに身体を離し、手塚を覗き込んできた。
「部屋で、お前を抱く。……今日は、逃がさん…」
眩暈が、した。
どうして、こんな事に───だが、ぞくぞくとたとえようもない淫靡な興奮が、身体の奥底から湧き上がってくる。
押し黙って微かに戦慄いたまま、手塚は真田を自室へ案内した。
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