生贄
 《2》












氷帝学園は、青春学園からは地下鉄で20分弱ほどの所にある。
手塚は練習試合や、あるいは今回のように頼まれものなどで何回も氷帝には来たことがあった。
当然学校内の様子もよく知っている。
放課後で、校庭で部活をする他の部の生徒などを見ながら、テニス部の部室へ向かう。
鉄筋コンクリート4階建ての建物に入りエレベータに乗ろうとした所で、
「手塚じゃねえか?」
と呼び止められた。
肩越しに振り向くと、会おうとしていた人物がいた。
薄茶色の柔らかそうな髪の下の青みがかった美しい瞳が自分をじっと見つめてきた。
「資料届けに来てくれたんだろ?」
「あぁ、連絡がいっていたのか」
「こっちも監督からお前を迎えるように言われててよ」
「そうか。資料はこれなんだが」
と言って手塚がその場でバッグから封筒を出そうとするところを、跡部が止めた。
「いや、監督が直接話がしたいって言うんでよ、直接監督に渡してくれねえか?とりあえず監督が来るまで 待っててもらわなきゃならねえんだが、いいよな?」
「あぁ、今日はもう学校には戻らないから大丈夫だ」
「じゃあ、こっちに来てくれよ」
いつになく機嫌がいい跡部に連れられて、手塚はエレベータに乗った。
4階まであがって、応接室に案内される。
「ちょっと座っててくれ」
「ではお言葉に甘えて…」
重厚な応接セットの広いソファに腰を下ろすと、隣が給湯室になっているのだろう、跡部が馥郁とした香りを立てて紅茶を運んできた。
跡部がそんな風に他人をみずから接待するなどとは思っていなかっただけに、手塚は驚きを禁じ得なかった。
「お前がそういう事をするとはな…」
「なんだよ、そりゃ、俺だって客をもてなすぐらいの事はするぜ?」
手塚の前に紅茶をカタン、と置いて、跡部が肩を竦める。
自分のテーブルの前にも置いて、跡部が優雅な仕草で向かいのソファに座るのを、手塚は紅茶を手に持って眺めた。
「ま、部員の前とか男の前じゃやらねえが、これで女にはまめなんだぜ?」
紅茶を一口口に含みながら、微笑する。
「ほう。…そういうものか…」
跡部が異性の話を持ち出してきたので、手塚は細い秀麗な眉を僅かに顰めた。
「なんだ、こういう話はいやかよ?」
跡部が瞳を細めた。
「いやというよりは、俺とそう言う話をしてもつまらんだろう」
「そうか?結構面白そうな気がするがな」
「なぜだ?」
今まで跡部とは結構話をする機会があったが、テニスに関連した話しかした覚えがなかったので、手塚は困惑した。
跡部が異性にもてるであろうことは、公式試合などで女性客が大勢見に来ることからも分かっている。
きゃーきゃーと騒がれて、まるでどこかのタレントのようでもあった。
そういう光景を何回も手塚は見ていたが、だからと言って自分と跡部とでその手の話をすることは全く想像外だった。
「俺の話はおいといて、お前だって結構もてそうじゃねえか?」
と跡部が言ってきたので、手塚は、眼鏡の奧の切れ長の瞳を僅かに見開いた。
「そう見えるのか?」
「あぁ、青学の部長で格好いいしな?」
「いや……」
どう話を返したらいいか分からなくて、手塚は眉を寄せた。
そういう話をされても困る。
テニスの話ならいくらでもいいのだが、というような表情が分かったのだろう。
跡部がくすっと笑って更に話を進めてきた。
「なぁ、手塚。……お前、童貞か?」
自分がそういう話を嫌がっているのが分かっているくせに、わざと仕掛けてくるところに、手塚は不快感を覚えた。
「付き合ったことねえのかよ?」
跡部が更に畳みかけるように問いかけてくる。
手塚は軽く溜息を吐くと、手に持っていた紅茶のカップをテーブルに置いた。
「資料は確かに渡したので」
短くそう言って立ち上がる。
テニスバッグを肩に掛け、跡部に、では、と一礼をして跡部が座っている側を通り抜けて帰ろうとする。
と、突然、手塚は突然背後から強い力で羽交い締めにされ、息を飲んだ。
「そうつれないこと言うなよ」
後ろから跡部が手塚を拘束してきたのだ。
「せっかく氷帝まで来たんだ。もっと話しようぜ?」
ぎりぎりと押さえ込まれ、手塚は跡部から逃れようと跡部の身体を押し退けようとした。
が、そこをすかさず背後から跡部に脚を引っ掛けられ、体勢を崩した所を床に押し倒される。
ぎりっと両手を後ろ手に拘束され、痛みが走る。
「な、なにをするっ!」
跡部の突然の振る舞いに手塚はどうして跡部がこんな事をしてきたのか、理由が分からなかった。
跡部は意味もなく暴力を働いたりはしない。
彼の気分を害したのだろうか。
それにしてもこっちも不快な気分になったのだ。
こんな風にされる謂われはない。
そう思うと憤慨の気持ちで頭に血が上った。
「跡部っ!はなせ!」
無我夢中で身体を動かそうとするが、両腕を拘束された上に上から跡部の体重で押さえ込まれて、動きがとれない。
自分よりも背が低い跡部だが、こういう事には慣れているのだろうか。
全く体の自由が利かなかった。
まさか、殴ったりはしてこないだろうが、と焦りと憤慨で肩越しに振り返って跡部を睨み付けた時、がちゃ、と扉が開いて、氷帝学園テニス部の顧問の榊が入ってくるのが見えた。
手塚はほっとした。
「榊先生!」
榊が来れば、跡部だって激昂が治まって、やめるだろう。
ほっとして、力が抜ける。
──と。
「監督、もっと早く来てくれて良かったんですけどね」
と自分の身体の上で跡部が落ち着いた声を出した。
わけが分からず、おさえこまれたまま振り返ると、榊が跡部に向かって微笑んだ。
「ご苦労」
そう言ってつかつかと自分たちの方に歩いてくる。
「どうしますか、監督」
「榊先生!」
声を掛けたのは手塚と跡部二人同時だったが、榊は跡部の問いに答えた。
「そのまま手を押さえておいてくれ」
手塚が自分の耳を疑った。
が、呆然としている間に、しゅるっと榊がネクタイを外して、榊の手によって手首にぎりぎりとそれを巻かれる。
「うっ!」
手首がぎしっと痛んで、手塚は思わず瞳を固く閉じて呻きを漏らした。
「へぇ、結構いい声出すんじゃねえ、手塚」
跡部が背後でくすっと笑う。
「眼鏡、邪魔だな。…取らせてもらうぜ?」
目を開けると視界がぼやけた。
「床では痛いだろう。座らせろ」
榊が跡部に言うと、跡部が頷いて、手塚の身体をソファの上に引きずり上げた。
「な、なにをっ!」
「なにをってな、ま、悪いようにはしねえからおとなしくしててくれよ」
そう言って片方の唇の端だけつり上げて笑う跡部の顔を、手塚は切れ長の美しい瞳を見開いて、呆然として眺めた。