◇悪戯   1  






並盛中学校の保健室は、本館1階の一番東の端にある。
南北を窓に囲まれ、東面壁にはベッドが4床並び、高い天井から下がったベージュ色のカーテンで一つずつ仕切られている広く静かな部屋だ。
南面端にはガラスの扉があり、開けて前庭に出る事も出来る。
「……結構悪くねぇもんだなぁ…」
洒落た模様のついたシャツに着崩したよれよれのネクタイを絞め、その上に白衣を羽織った格好で、シャマルは南側の窓の外を眺めた。
ベッドを背にしておかれた中央の広い机の上にはデスクトップのパソコンとプリンターのセットが置かれ、いつでも仕事ができるようになっている。
西側の壁には廊下よりの入口となる大きな扉があり、すぐ前にテーブルが置かれ、さまざまな治療薬や消毒液等が並んでいる。
西壁にはまたシャマル専用に冷蔵庫や給湯設備まであり、シャマルは好きな時間にそこで湯を沸かして珈琲を飲んだり、ピザを暖めて食べたり出来る、というわけだ。
待遇の良いこの仕事を、シャマルは結構気に入っていた。
何しろ、自分は国際指名手配中の身だ。
本来ならば、こんな表の仕事などできる立場ではない。
裏の世界でひっそりと隠れて殺し屋稼業を続けていた所だ。
それを、ボンゴレファミリーのリボーンが日本に招いてくれたのだ。
日本にはボンゴレファミリーの次期10代目ボスが居るという。
それだけでなく、シャマルが何年か前に医者として働いていた屋敷の主の息子である獄寺隼人までいるという。
獄寺隼人がボンゴレファミリーに入ったのは風の噂で聞いていたが、意外な縁だ。
(にしても、平和だな…)
シャマルは座り心地の良い椅子の背凭れにゆったりと白衣の背中を預け、足を組んで窓の外を眺めた。
保健室の南側は前庭になっており、暑い日差しを遮る大きな広葉樹や、緑の芝生に並盛中の緑化委員が植えたのだろう、オレンジや黄色などの色とりどりのマリーゴールドやサルビアが咲き乱れている。
扉がコンコン、とノックされる。
「先生、いらっしゃいますか…?体育でけがしちゃって…」
体操服姿の女子が二人、保健室に入ってきた。
見ると、独りは膝から血を流している。
「転んですりむいたんだね?どれ、すぐに血が止まるからね…」
シャマルはにっこりとして、丁寧に傷を消毒し、ガーゼと絆創膏で手当してやった。
「有難う御座いました!」
元気よく礼をして去っていく女子中学生の後ろ姿を、シャマルは瞳を細めつつも、やや残念そうな表情で見送った。







───そう。
日本での暮らしに特に不満はなく、いやむしろ満足しているシャマルだったが、一つだけいかんともしがたい不満があった。
日本には、自分と付き合ってくれそうな女性がいないのである。
イタリアに居た時は、そこかしこに愛人が存在していたので、女性に困るという事はなかった。
今日はこっちの女、明日はあっちの女、ととっかえひっかえ好きなように付き合えていた。
勿論、付き合う、といっても、それは夜の付き合いである。
ところが、日本には、そういう意味で付き合ってくれるような女性がいない。
国際指名手配中であるから、まさか人での多い繁華街で遊ぶわけにもいかない。
それでなくてもイタリア人な自分では目立ちすぎで一発で素性がばれる。
また、真面目に付き合う気など全くないシャマルにとって、並盛中の女子職員などは論外である。
まず、シャマルの食指を動かすような女性がいない、というのもあるが、もし手を出してしまったりしたら、間違いなく遊びでは済まされない。
そして、勿論、年端もいかない女子生徒などは論外中の論外。
つまり、シャマルの相手をしてくれそうな女性は皆無、という事だ。
いきおいシャマルは日本に来て並盛中の養護教諭になってからというもの、まるで神父のように清らかな生活を送っていた。
今までが今までだけに、本当に出家したようである。
女性の柔らかい肌に抱きつきたい。
ふっくらとした頬に口付けし、深いキスをしたい。
たわわな胸をも身、濡れた秘所に押し入りたい……







「リボーン、なんとかしてくれよっ…」
日に日にげっそりとなったシャマルはとうとうリボーンに泣きついた。
「なんで俺に言うんだ?かんけーねーぞ」
放課後の保健室は窓から午後の光がベージュ色のカーテン越しに入り込み、ゆったりと紅茶でも飲みながらくつろげそうな、落ち着いた牧歌的な雰囲気である。
が、シャマルは全然そうではなかった。
頬がこけ、顎には無精髭が伸び、洒落て格好の良い面影は今や微塵もなく、欲求不満の中年男、といった生臭感まで漂ってくる。
シャマルのSOSでわざわざ並盛中までやってきたリボーンだったが、返答は素っ気なかった。
「そう言わずに、何か考えてくれよ。いい女でもいねぇか?」
「そんな都合のいい存在はいねーぞ。シャマル。ここはイタリアじゃねぇ。日本なんだからな」
「そりゃ分かってるけどよ…」
椅子に力無く座り込んでいるシャマルの目の前の机にちょこんと座って、リボーンがシャマルを覗き込んだ。
「女が欲しくてたまらねーのなら、そうでなくなるようにしちまえばいーぞ」
「はぁ…?」
「オマエは身体の中にいっぱい悪い病原菌を飼ってるだろ。女好き菌もその一つじゃねーのか?トライデントモスキートで女好き病をなくしちまえ」
「おいおい、そりゃひでぇだろ、…俺の存在意義がなくなるじゃねぇかよ」
「だいじょーぶだ。変態じゃなくても一応医者としてやってけるんだからな。たまには女から離れて清らかな生活でもしてみろ」
「……って、赤ん坊に言われたかねぇよな…」
などとぶつぶつ口の中で呟いたシャマルだったが、考えてみると、リボーンの提案はそう悪くなかった。
どうせ、国際指名手配中は謹慎して、悪行を謹んでいなければならないのだ。
日本で隠れている間、欲望を我慢して辛い思いをするぐらいなら、女好きでなくなっていた方が楽かもしれない。
(謹慎が解けたら反対の薬で戻せばいいんだしな)
とりあえず、試すだけ試してみるか───。
その日、並盛中から自宅マンションへ帰宅したシャマルは、早速トライしてみることにした。
自分の身体に関係する病原菌を操作し、モスキートを腕に刺してみる。
(……こんなもんか…?)
半信半疑だったが、どうせ効かなくても構わないし、とシャマルは特に気にもせず、その日はそのまま寝てしまった。







───しかし。
リボーンの提案は正しかった。
(…………おい、ホントかよ…)
次の日、学校に行こうと道を歩いていたシャマルだが、昨日までは可愛い女子大生や綺麗なOLを見るたびに鼻の下が伸び、抱きついてキスしたくなる欲望を必死に押さえながら登校していたというのに、今朝は同じように可愛い女子大生や綺麗なOLを見ても、まったく食指が動かないのである。
それどころか、なんだか近寄りたくもない気持ちだ。
効果覿面。
さすが俺………などと半ば感心しつつ、シャマルはその日一日過ごしてみた。
学校でちょっと素敵な女教師にも、全く関心が湧かない。
今まで欲求不満でげっそりしていたのが嘘のように爽やかな心持ちになり、保健室の掃除でもしてみるか、とか、前庭から花でもとってきて飾ってみるか、などと、平和な事を考えていたりする。
「シャマル先生、なんだか機嫌よさそう。何か良い事あったの?」
などと、保健室に来た女子生徒にも言われる程である。
(ふーん……)
意外と女抜きの生活ってのも悪くないかもしれない。
たまにはこういう清らかな生活も良い。
清らかな間に、医者としての勉強でもしておくか。
…などと真面目な事まで考えてしまう始末だ。
その日はシャマルは午前中、数人の中学生の体温を測ったり、ベッドに寝かせたり、保健室の掃除をしたり花を飾ったり、勿論今朝は無精髭も剃ってさっぱりとしてきて、素敵な時間を過ごしたのだった。







………ところが。
「…シャマル……おい、いるか…?」
昼食に出前のパスタをのんびりと食べて歯を磨き、優雅に午後の一時を楽しんでいたシャマルの所に、額から血を流し、肩を庇いながら一人の中学生がやってきた。
午後の光にきらりと煌めく白銀の髪。
薄く灰色がかった緑色の瞳を眇め、形の良い細い眉をぎりっと寄せて眉間に深く皺を刻ませ、薄桃色の唇を歪めている。
額の血が目尻を伝って頬に流れ、一種凄絶な美貌を醸し出していた。

「隼人じゃねぇか?」






back  next