◇蔵魄之地(ぞうはくのち)  1   




ヴァリアー本部はボンゴレ本部から少し離れた所に立つ。
それはイタリアの中でも殆ど知られていない、静かな森の中に聳えた隠れ古城である。
数百年の時を経て立つ城は、周囲から隔絶され、古い大木に囲まれ、ひっそりと佇んでいる。
そこに至る道は限られたごく少数の関係者しか知らず、当然の事ながら滅多に外部との出入りもない。
幹部達は城の内部にそれぞれ個室を与えられており、それは主であるザンザスも例外ではなかった。
ザンザスの個室は、彼の執務室の隣に位置し、執務室までは幹部は出入り自由となっていた。
幹部以下の隊員は許可が無くては入ることは許されない。
中世然とした外観はいかにも古色蒼然としていたが、内部は大々的な改装がされており、実際は壁の内部にはセンサーが張り巡らされ、最新の設備が整えられている。
が、外見はいかにも古く伝統のある作りをそのままに残しており、執務室もそうだった。
古い木枠の縦長の窓には深みのある赤のベルベットのカーテンが下がり、優美なドレープを作っていた。
その窓の外は、雨だった。
執務室の中央、重厚な古い雁木の机に向かってペンを走らせていたザンザスは、振り向いて窓の外を眺めた。
深紅の瞳に陰鬱な雨の降る鬱蒼たる庭が映る。
ひとけのない、誰もいない外は木々の碧が滴るようで、生い茂った葉が重く雨に打たれていた。
ふと、眺めていたのとは反対側、扉の向こうに人の気配を感じ、ザンザスは顔を元に戻した。
扉が音もなく開いて、空気が僅かに動き、するりと音も立てずに人が入ってくる。
光量の少ない室内照明に銀色の頭髪が煌めき、動きに連れて残像となって暗い室内を輝かせる。
入ってきた人物は、滑るように接近しザンザスの机の横に立った。
落ち着かない様子で漆黒の隊服の裾を、同じく黒手袋で覆われた長い指の先で摘んでは離し、急いで来たのだろう、乱れて額や肩にかかる銀色の髪もそのままに口を開いた。
「ボ、ボスゥ…呼んだかぁ?オ、オレ、急いで来たぜぇ」
スクアーロはザンザスの前ではたいていの場合、その外見の優秀さにかかわらず、どこか脳細胞に欠陥があるような言動をする。
黙っていれば冴え冴えとした美貌に色素の薄い煌めく髪や瞳がどこか神がかった美しさを感じさせるのに対し、口を開けばその美しさの分、奇妙な欠落が余計に目立つ。
落ち着かない仕草や、緊張すると舌足らずな口調になる癖がそうだった。
「…遅ぇ」
一言言い放つと、ザンザスは横に立ちつくしているスクアーロを一瞥した。
組んでいた足を解いて、無防備に立っているスクアーロの膝を思いきり蹴り上げる。
複雑な文様の厚手の絨毯の上にスクアーロの細い身体を叩きつけて立ち上がると、仰向けに転がった彼の腹部に堅いブーツの先をめり込ませる。
スクアーロは一瞬ぽかんとしていた。
自分が何故ザンザスの怒りを買ったのか、分からないのだろう。
鍛え上げられてはいるもののザンザスにかかればいとも容易くそのしなやかな体躯は床に打ち倒され、弱い部分への一撃は全身を苦痛に染め上げる。
しかしスクアーロは僅かも怒りを見せなかった。
絨毯の上に煌めく銀糸の髪を散らしたままでザンザスを見上げる。
ひたすらに理不尽な暴力に耐え──いや、耐えるという観念そのものが彼にはないのかも知れない。
あるのはただそういう行動に出たザンザスを思慕する心だけ──苦痛に顔を歪めつつも注意深く慎重に彼は手を伸ばして、自分の腹を押さえ付けめり込んでいるブーツに触れ、慈しむようにそれを撫でた。
「す、すまねぇ、ボス…怒らないでくれぇ…謝る、から…嫌わないでくれぇ……っ」
か細い声。
語尾が震え、哀れっぽく部屋に響くその声に、ザンザスは更に苛ついた。
「…煩ぇ。テメェはなんでそううぜぇんだ…黙ってろっ!」
スクアーロの弱々しい懇願も、自分のブーツを撫でる優しい愛撫も、ザンザスにとってはうんざりとさせられるもの以外の何者でもない。
深紅の双眸を忌々しげに眇めて、ザンザスはスクアーロを睨み付けた。
堅いブーツの先でスクアーロの腹部を容赦なくぐりぐりと抉り、反対の足では床に広がった銀髪を靴底で踏みにじる。
「うっァあ゛ッ…ボスぅ……ごめんなぁっ…許してくれぇ……」
それでもスクアーロにとって、ザンザスは唯一の存在だった。
彼の傍にいられる事だけがスクアーロの願いだった。
なぜそのようにザンザスが彼の中で神聖化されているのかはさだかではないが、その思いだけで彼は生きていると言っても過言ではなかった。
腹部を強く踏まれることによって胃が迫り上がり肺が潰れる。
空気が口から漏れ、息苦しいのを必死に耐え、スクアーロは自分の髪を踏むブーツを銀蒼の眸を細め愛おしげに見つめるとのろのろと顔を上げてブーツに頬擦りをした。
「オレにはボスだけだぁ…アンタに殺されるなら本望だけど…まだ傍に居させてくれよぉ…」
傍目からは卑屈に見える態度だが、彼は真剣だった。
この真摯な思いは誰にも止められないし、邪魔もさせない。
その点でスクアーロに勝てるものはいず、ザンザスでさえ、スクアーロの思いの真摯さには敵わなかった。
スクアーロが哀れっぽく謝罪の言葉を口にしても、許してくれといっても、許すのは自分ではなく、そうさせているのはスクアーロである。
スクアーロはザンザスのブーツを、身体を丸めて抱き締めた。
足元に暑苦しくまとわりつかれ、ザンザスは顔を顰めた。
「…テメェはどうしようもねぇカスだ。…オレの傍に居てぇだと?だったらそれにふさわしい働きをしろっ。この、ドカスの白痴野郎がッッ!」
この執拗な鮫は、馬鹿の癖に侮れない。
堪えようと思っても、舌打ちが漏れる。
ブーツの先でスクアーロの白くこけた頬を蹴りつけて、ザンザスは吐き捨てるように言った。
「ほら、立て。いつまで床に這い蹲っていやがる!」
「う゛ぅっ…」
顔面を蹴られて、靴底で擦られて頬にうっすらと血が滲む。
しかしスクアーロはその痛みをさほど気にすることもなく、長い銀髪を引きずってゆっくりと身体を起こした。
「お、オレ、頑張るからよぉ、用件は何だ?殺しか?死体処理でもなんでもしてやるぜぇ」
どこか弾んだ声でスクアーロが微笑する。
微笑しながらザンザスをちらりと見ては、視線を落として長い睫を瞬く。
それは見とれるほど美しくもあり、銀色にけぶる睫の震える様は人間離れしていて怖じ気づくほどでもあった。
「…何でもか…」
──この鮫は自分を苛つかせる最高の手段を持っていやがる。
内心の苛つきに震えが来るほど怒りが込み上げてきて、ザンザスは視線を窓の外に向け、息を吸った。
握りしめていた拳を緩め、自制心を取り戻す。
それから深紅の虹彩に冷徹な色を浮かべ、立ち上がったスクアーロの長い銀髪や血の滲んだ白い頬を見つめた。
執務机の上から紙を一枚手に取るとスクアーロに突きつける。
「ここのホテルへ行け。部屋番号はこれに書いてある。任務の内容も書いてある。行って向こうで待っている男の相手をしてこい。相手に気に入られるようにせいぜい色っぽく可愛く振る舞えよ」
スクアーロの一種無邪気な返答をあざ笑うかのように口元歪めて微笑に応えて自分も酷薄な笑いで返す。
スクアーロは暫く呆けたように差し出された紙切れを見つめていた。
銀蒼の透明な眸が丸くなり、ぼんやりとしたまま書類を受け取ると、紙面に書かれた文章を目で追い、困惑したように瞬きする。
視線を下げたまま左右に落ち尽きなく彷徨わせ、無意識にだろうが、右手の中指の爪を黒手袋越しに噛み始める。
それから少し顔を上げて、軽く首を傾げて微笑した。
「う゛お゛ぉい、…大事な取引なんだろ?…オレ、頑張って来るからよぉ、うまくできたら頭撫でて褒めてくれよぉ。なぁボス…」
形の良い薄い唇に微笑を浮かべ、どこか放心したように呟く。
「任務が終わったら報告に来い。いいな?」
「あぁ、分かった。…うまくやるぜぇ?」
くるりと振り返って背を向けたスクアーロの、長身にしては細い背中が、少し猫背になっていた。








スクアーロが命じられて見知らぬ男の相手をするのは初めてではない。
マフィア界の汚れ仕事を引き受けるのがヴァリアーであり、それは暗殺に限った事ではなく、見目麗しいものを宛って相手を懐柔し骨抜きにして有利な情報を手に入れる、或いは利用する、という事はままあった。
たいていは女の役目であった(ヴァリアーには女性の隊員も僅かながら存在する)が、中には男がいいという特殊な嗜好を持つ者がいて、その相手としてスクアーロは最適だった。
彼は暗殺の技術に関しては申し分なく、また美しさにおいても申し分なかった。
さらには性技においても彼は申し分ないらしく、彼がその手の任務について陥落させられなかった相手は存在せず、そして利用しつくした後はスクアーロが速やかに処理した。
スクアーロは完璧であった。
一見脳細胞が足りないようにみえて、いや、実際足りないからこそ、スクアーロは完璧に仕事ができるのかもしれなかった。
臈長けた容姿に白く抜けるような肌。
見つめられると魂を持って行かれそうな輝く銀蒼の眸。
同じく銀色の、絹糸のように繊細で真っ直ぐに流れ落ちる髪。
寸分の隙もない容姿をどこか堕落したいかがわしいものに落とすのは彼の欠落した脳細胞であり、欠落こそが彼の魅力の核でもあった。
人々は完璧な彼の欠落に引かれ、溺れ、利用されて殺されるのである。
スクアーロの脳内を占めてるのは、ザンザスのことだけであり、ザンザスに対する彼の忠誠心は尋常ではなかった。
それは当のザンザスをもたじろがせる程であり、ザンザスはスクアーロの事を自分でもどう思っているのか分からない時があった。
が、スクアーロはただひたすらにザンザスを希求し、ザンザスのために生きることのみを欲し、それ以外のどんな事にも興味を示さなかった。
この銀色の鮫の欠落した部分にザンザスが入り込んだとでも言うかのように……。
スクアーロはやろうとすればいかにも切れ者の殺し屋になることもできる。
ヴァリアー幹部である以上、七カ国語を操れなければならず、咄嗟の判断や指揮も執れなければならない。
勿論スクアーロは満点だった。
彼は冷静に言葉を紡ぎ出すこともできれば、瞬時に判断して決断を下し、美貌と才知の相まった稀有な存在ともなれる。
それがまた他人の畏怖の対象ともなれば、彼のマフィア界における対外的な評判は悪くなかった。
彼の奇妙な言動に関しては、ザンザスも頭を傾げざるを得ない。
だが、スクアーロにとってはそれは全て自然な言動であり、白痴めいた動作は意図したものではなく、彼の奥底の心情の吐露でもあった。
なんにしろ、スクアーロは──…ザンザスを震撼させ、また苛つかせ、懊悩させた。






back  next