◇浮木(ふぼく)  1   







自分が外見のお陰で随分と得をしているのはよく分かっていた。
誰もが見とれ、褒める整った容姿。
煌めく金髪、パーツの一つ一つが完璧な顔には、男女問わず視線に憧憬が込められているのも知っている。
柔和で人懐っこい笑顔に魅了され、初対面で悪い印象を持たれた事もない。
だからと言って、自分の内面までいいかと言うとそうでもなかった。
ディーノは己の外見に惑わされて、マフィアのドンにしては穏健で暖かくファミリー思いだと信奉しきっているものたちを、軽蔑はしないまでも、所詮外見によって左右される人間だ、とぐらいの認識でしか思っていなかった。








そうは言っても、考えてみると、自分も、外見を無視はできない方かもしれない。
目の前に座っている銀色を纏った美しい人物を眺めて、ディーノは琥珀色の双眸を細めた。
目の前に座っているのは、スクアーロだった。
以前、ザンザスが健在な頃にはスクアーロは決して自分に対して心を許さなかった。
心を許すも何も、最初から自分の事など歯牙にも掛けていなかった彼が、目の前にいる。









ザンザスが姿を消して6年。
当然の事ながらディーノはザンザスが氷柱の中で凍らされている事は知らない。
同盟ファミリーのドンとはいえ、ボンゴレのトップシークレットらしいその事項については、話題の端に乗せる事もしない。
素知らぬ振りをし、ザンザスが長い休暇にでも出ていて、たまたまいない、と思っているように振る舞っている。
勿論、そんな振る舞いも嘘で塗り固めた一種の外交政策であって、それはボンゴレの当代の9代目も、そして目の前にいるスクアーロだって知っているだろうが。
しかし、ザンザスがいない、という事自体は、ディーノにとって非常に重要な意味を持った。
彼がいなくなって6年。
目の前のスクアーロは長い銀髪を腰の上当たりまで揺らし、俯いてワイングラスを傾けている。
こういう風に彼が自分の前に座って、少しなりとも寛いだ風を見せるという事自体が、ザンザス不在の時間が6年経っているという事を顕著に表している。
ザンザスの消息を聞かなくなって最初の2年は全くスクアーロは姿を現さなかった。
ザンザスがいなくともヴァリアーで働いている事は漏れ聞こえてはいたが、その仕事の特殊性からではなく、スクアーロはディーノの目の前から忽然と消えた。
しかし、3年目には、驚いた事にスクアーロの方から接触してきた。
ボンゴレ主催のパーティに招かれた際、9代目の護衛として表に出てきた彼を見たときの衝撃を、ディーノは今でもありありと思い出す事ができる。








スクアーロはヴァリアーの黒ずくめの隊服ではなく、勿論黒ではあったがシックなスーツを着こなし、壁際に佇んでいた。
気配を消して護衛に当たるのが任務だから当然だろうが、ディーノは最初スクアーロに気がつかなかった。
それが。
「久し振りだなぁ、跳ね馬」
と、パーティが終わって人々が殆ど去りかけた時分、ボンゴレ9代目と最後まで歓談していて出るのが一番遅くなったディーノに、彼は物陰からひっそりと声を掛けてきたのだ。
忘れるはずもない、その声。
振り向いてディーノは驚愕のため硬直した。
短かった銀髪は、いつのまにか背中の中程までまるで煌めく滝のように流れ落ちており、高慢で自信に満ちていた瞳は、どこか暗く陰惨な印象に変わっていた。
何が変わった、と言われると、外見につきるが、以前よりも覇気のない様子と、それでいて鋭く研ぎ澄まされた牙が垣間見える雰囲気に、ディーノは息を呑んだ。
声を掛けていいものかどうか、躊躇っていると、向こうから近寄ってきた。
「よぉ、…羽振り良さそうじゃねぇかぁ」
近くでみる3年ぶりのスクアーロは、以前にも増して一層透き通るように美しかった。
元々彼は美しさ、という点に置いては、自他共に認める自分よりも上ではないか、と思う時がある。
ただ彼の場合、粗暴な行動や下品な口調がその美貌を損ねていた。
人というのは全体の雰囲気からまずその人となりを推し量るものであるから、スクアーロの場合第一印象が最悪になる。
そうなると、元来彼の持つ際だった美貌にまでは眼がいかずに、粗暴で荒々しい言動のみが人の心に残る事となる。
しかし、今目の前にいる彼のように、闇に紛れてひっそりと佇んでいれば、それはまるで一幅の宗教画の天使のように、彼は神秘的なまでに美しかった。








そして3年という月日、更におそらくはザンザスの不在が、スクアーロを内部から侵食しているのであろう、彼は以前、へなちょこと呼ばれていた自分が学生時代に知っていた彼ではなかった。
闊達で粗暴で、見境無く振る舞い自信に満ちあふれた往時の彼とは、一見別人のように見えた。
暗く、影を持ち、以前より儚い印象を受ける。
とは言っても、彼の基本的な本質は損なわれてはいないだろう。
ディーノは、スクアーロが誰よりも信念が固く矜持の人であることを知っていた。
学生時代には、自分の持っていないそのような信念や自信、矜持にどれほど憧れた事か。
そして、彼がヴァリアーに入隊してからというもの、ザンザスにだけ向けられる忠誠心と献身にどれだけ醜い嫉妬心を燃やしたか…。
瞬時にしていろいろな思いが胸中を錯綜し、ディーノは目を見張ったまま立ちつくした。
スクアーロが薄い銀青色の双眸を細めて微かに笑った。
それはどこか陰惨で鬱鬱とした笑いであって、ディーノは身の裡に相手に呼応して己も陰惨な情熱が湧きだしてくるのを感じた。
「…本当に久し振りだぜ。…元気そうでなにより…」
伸びた髪の事とか、今まで何していたんだ、とかは、それこそ聞いたらスクアーロは二度と自分の前に姿を現さないだろう、と容易に想像ができたので、話題からは避けた。
スクアーロが唇を微かに歪めた。
彼はいつも大口を開けて叫んでいるか、下品な言葉を撒き散らしているかであったので、このように微かな唇の動きはディーノには珍しいものだった。
引き結んでいると形良く薄い唇は、色素のない白い表情を一層際だて、触れたらどんなに柔らかいのだろう、いや、堅くかさついているのだろう、とディーノにあらぬ妄想を抱かせた。








ディーノは、スクアーロの事が好きだった。
学生時代のへなちょこと言われていた頃から、彼に憧れ、少しでも近づきたいと思い、それが適わぬと知って絶望した。
スクアーロの眼がザンザスしか見ていない事を知り、自分の事など彼の頭の片隅にもないのだ、と知って、忸怩たる思いに唇を噛んだ。
彼の何処がいいのか、と聞かれたら、言下にディーノは存在そのもの、と答えるだろう。
当然そこには彼の外見の際だった美しさも含まれてはいたが、それは、彼を構成する一部であって、彼は魂そのものが高貴だった。
高貴で、卑猥で、下品で、神聖だった。
手を伸ばしたら即座に振り払われ、侮蔑され、スクアーロは二度と自分を省みないだろう。
それが十分に分かっていたから、ディーノはザンザスとともにいるスクアーロを、まるで恒星の回りを回る小さな惑星のように同じ半径を描きつつ眺めるしかなかった。
少しでも近づいたら、軌道から逸れた自分は、たちまちスクアーロの重力バランスから飛び出していってしまうか、もしくは衝突して消滅してしまうだろう。
一方的に見ているだけ、一定の距離以上は決して近づけない。
燃えさかる星の回りを永遠に回り続ける冷たいちっぽけな自分。
そう自覚していたので、3年ぶりとは言え、スクアーロの方から自分に近づいてきた事に、ディーノは驚愕していた。
彼はけっしてこんな事をする人間ではない。
もし自分に近づくとしても、横柄に、まるで自分の事など視界の端にも入れていない、という不遜な態度をするはずだ。
しかし、今、自分に声を掛けてきたスクアーロには、僅かではあるが、自分と接触したい、という意図が見え隠れしていた。
薄い唇が少し緩んで、白く並びの良い歯が垣間見える。
端麗な美貌のまま自分に話しかけてくる彼に、ディーノの、マフィアのドンとして数年間、マフィア界や政界、世間と接して強かに汚れた理性がチャンスだと囁いてきた。
スクアーロに近づくチャンスだ。決して逃してはならない千載一遇の。
唯一、彼がワナにかかってきた瞬間。
それは、ザンザスがいない、という孤独と絶望に、彼が侵食されてきたことを如実に表していた。
──ザンザスがいない。
なんという事実だろうか。
これほどの僥倖はまたとない。
ザンザスがいないからこそ、スクアーロは自分にまで降りてきたのだ。
孤高で、誰にも擦り寄らず、唯一ザンザスにのみ忠誠を誓い、彼のためなら命も厭わない、プライドの高い彼が。
ディーノは旧友に会えた純粋な喜びを表情に昇らせながら、心中深く、陰惨な喜びを覚えていた。








それから以降、スクアーロは少しずつ自分に接触するようになってきた。
彼自身は気付かないのだろう。
スクアーロ自身を構成し支えていた、ザンザスという核が消えて、自分が崩れ始めた事に。
4年目にはボンゴレ関係のパーティに限らず、ディーノがボンゴレへ赴けば、スクアーロが迎えに出てくるようになった。
6年目にはディーノが招待すれば、休暇が取れるような時には、渋々ながらもディーノの広大な屋敷を訪れるまでになった。
そして、もうすぐ7年目がくる。ザンザスがいなくなってから7年目が。
スクアーロの髪は腰の下まで伸びていた。
己の前の前でワインを飲み下す白い喉の動きと、布貼りのソファに座って緊張を解いている様子に、ディーノは少しずつワナを狭めていく猟師のような心持ちで、目の前の獲物を眺めた。
───そう、獲物だ。
今のディーノにとって、スクアーロはもう少しで手に入るかもしれない、獲物だった。
ここまで到達するのに、どれだけ時間を掛けただろうか。
忍耐と自制心。相手を安心させ気付かせない努力。
決して相手を刺激しない、厳選した態度。
少しの油断も、気のゆるみも致命傷となる、狩り。








もしザンザスが戻ってくれば一瞬にしてこの数年間の努力も無駄となる。
果たしてザンザスはどうしているのか。戻ってくるのか。
じわじわとスクアーロを陥落させようとしつつも、ディーノはザンザスの事を考えると、焦燥感と不安に身を焼かれるようだった。
が、それを表面に出さず、誰にも気取られないだけの理性と狡猾さは既に身に付けている。
「なぁ、今日は泊まって行けよ。明日も休みなんだろ?」
さり気なく、何気ない調子で言葉をかける。決して内心の欲を見せてはいけない。
今のディーノにはいかなスクアーロと雖も決して気付かせないだけの処世術を体得していたた。
「あ゛あ゛?…休みだが…」
「じゃあ、夜まで飲みあかそうぜ。いいワインが手に入ったんだ」
あくまで気の置けない友人同士の会話を続ける。
スクアーロがさらりと銀砂のように美しい髪を流し、手に持ったワイングラスを見つめた。
赤く光る淡いルビーのようなその液体をグラスの中で揺らし、重厚な布貼りの椅子の背凭れに後頭部を預けて思案するように瞼を伏せる。
長い銀色の睫が瞬き、室内の照明に煌めく。
全くそれは表現しようがないほど美しい光景だった。
ディーノは身体の芯にじわりと醜く疼く情欲を感じた。
スクアーロは知らない。自分が彼を本当はどのような眼で見ているのか。
絶対に分からせないようにしてきた。
もし少しでも気付かれたら、この警戒心の強い、矜持の塊のような鮫はあっというまに逃げていってしまうだろう。
この鮫を捕獲するために、何年もかかって慎重に網を張ったのだ。
ここまで気を許させるのに数年かかった。
これからも何年掛かるか分からない。
が、これほどディーノの心を高揚させるものはなかった。
そして、高揚すると同時に恐怖を抱かせるものもなかった。
今のディーノの地位は、ひとえにザンザスがいないから、という事に依拠している。
もしザンザスが帰ってきたら、いかに網を張っていようと、何年も掛けて少しずつ懐柔してきたとしても、スクアーロは一瞬で自分の目の前から去っていってしまうだろう。
今、ディーノの前で見せているような、気を許した素振りなどあっと言う間に烏有に帰すだろう。
元々、現在のスクアーロの状態こそが、尋常の彼ではないのだ。
本当の彼は、狡猾で傲慢で矜持の塊だ。
ザンザス以外に決して気を許さず、更にザンザス以外に誰かと交流を持とうとも考えない。
彼の意識は全てザンザスが絡め取っている。昔も今も。
ザンザスの傍にいてこそ、彼の真髄が発揮される。
輝くように傲然とし、ザンザスには額を垂れ敬服し、それでいて誰よりもプライドが高く美しい。
それに比べると、今、…ザンザスがいなくなって6年をほぼすぎたスクアーロは、いわば抜け殻のようでもあった。
鮫の牙を抜かれて、どこか呆然としている、置き去りにされた子供のようだった。
突然迷子になって途方に暮れ、親を求めて泣き叫ぶ頑是無い幼児。
泣き叫び、親を捜す幼子であればこそ、自分がつけいる隙がある。




「じゃあ、そうすっか。…これから帰るのも面倒だしなぁ」
スクアーロの言葉に、ディーノは善良そうなにこやかな笑みを浮かべた。






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