◆Snowflake 1








真夜中の街は、遠く上層階の高層ビル群の光を微かに反射して、暗く建物のシルエットを浮かび上がらせている。
ブロンズステージの古い街並は土色に沈み、初冬の冷たい風に、石畳に落ちた枯れ葉が舞う。
かさかさと乾いた音がして、野良猫だろうか、陰気な小動物の鳴き声が響いた。
照明もない暗闇の街並の通りを一つ隔てた向こうは、繁華街だ。
下卑た喧噪が風に乗って流れてくる。
男同士で喧嘩でもしているのか、罵声と殴り合うような音。
その繁華街の方から暗い住宅街へと、虎徹は歩を進めていた。
先程まで一人で、繁華街の片隅の行きつけのバーで飲んでいた。
どぎついネオンの光るその通りの一番外れにある小さなバーは、虎徹にとって馴染みの場所だ。
入るとカウンターに椅子が数個。
それだけで、数人も入れば立錐の余地もなくなる程の小さな店。
年季の入った、定年を過ぎてその店を開店したかと思われる老人が、一人で切り盛りしている。
虎徹の事は馴染みであるというだけで、虎徹の素性やヒーローである事も知らないし、詮索しても来ない。
そういう気楽さが心地良かった。
小一時間、そこで焼酎を嗜み、ほろ酔い加減で店を出たつもりだった。
少々飲み過ぎたきらいもある。
店からそんなに遠くない所に、虎徹の自宅はあった。
歩いて10分程度だ。
そのまま帰って寝るのが妥当だ。
――が、まだ帰りたくなかった。
ひゅう、と風が吹いてきて、虎徹のトレードマークでもあるハンチング帽からはみ出た黒髪を揺らした。
冷たかった。
無意識に溜息を吐く。
うまく説明できないが、心の中に処理しきれない邪魔な感情があった。
なんだろうか…。
携帯を取り出して友人を検索する。
呼び出すとすぐに相手が出た。
『なんだ、随分遅いじゃねぇか』
「よぉ、アントニオ…暇だったら付き合わねぇ?」
『まだ飲んでるのか虎徹。お前今日出動して怪我したばっかじゃねぇか。すぐ帰って寝ろよ』
「怪我なんでほんのかすり傷だ。たいした事ねーよ」
確かに、今日は虎徹は怪我を負っていた。
出動要請がかかっていつものようにバーナビーと共に犯人逮捕に向かった時、怪我をした。
二人組のヒーロー、パートナーのサブ、そういう位置づけで虎徹は雇われていたが、雇用の際の条件を守った事などない。
ヒーローたるもの、自社の宣伝やポイント稼ぎよりも人命救助とばかりに躍起になっていれば自ずと条件は破られる。
その挙げ句が怪我だ。
会社からは重々注意を受けた。
怪我も一人で先走って行動をした結果だ。
犯人一味が市民を盾にしようとしたので飛び出した。
能力を発動する前だったので僅かに体勢が崩れて、市民を救助はしたものの代わりに虎徹が肩に銃撃を受けたのだった。
とは言えスーツを着用していたおかげで単なる打撲で済み、既に痛みもなく申し訳程度に治療を受けただけだ。
「出てこれねぇか?」
執拗に誘ってみたが、アントニオの返事はあっさりとしたものだった。
『虎徹、帰って寝ろ。お前最近少しふらふらしてるぞ。じゃあな、おやすみ』
「…ちぇ…」
ツー、と切れた携帯に向かって舌打ちする。
やはり帰るしかないか。
風に吹きさらされた頬が氷を当てられたように冷えている。
ジャケットの襟を高くして、虎徹は背中を丸めた。
もう一人、掛ける事の出来る相手が、いない事はなかった。
携帯には、その人物の番号とメールアドレスが登録してある。
しかし、この時間に誘いを掛けるには随分と勇気の要る相手だった。
まず断られるだろう。
その上、こんな時間に掛けてきて、とまた悪印象を持たれてしまうかも知れなかった。
どう考えても掛けるべき相手ではない。
しかし、このまま自宅に帰りたくはなかった。
誰かと何気ない話をしたかった。
もう少し他人の存在を感じたかった。
どうするか…。
携帯の液晶画面を眺めつつ虎徹が逡巡していると、その虎徹をまるで観察していたかのように絶妙なタイミングで携帯が鳴った。
しかも掛けてきた相手は今虎徹が掛けようと悩んでいた相手だ。
タイミングの良さに驚愕しながら携帯に出る。
『…もしもし、今、起きてます?』
「あぁ、まだ起きてるっていうか、外だぞ。お前から電話とか珍しいんじゃね?」
『…外ですか。どこにいるんです?』
「自分んちの近くだけど、なんか帰りたくなくてなぁ」
『…それなら、貴方の家からだと遠くて申し訳ないんですが、僕の家に来ませんか?』
バーナビーの提案があまりにも自分がそうできれば、と思っていた内容だったので、虎徹は正直言って驚いた。
まるで自分の考えている事が相手に伝わっているような錯覚さえ覚えた。
まさかそんな事はあるまいが、……とにかくこの誘いを逃す手はない。
「お、いいのか?じゃあそっち向かうわ。そうだな…20分ぐらいで着くと思う」
弾んだ声の調子が電話越しに分かったのだろう、受話器越しにバーナビーが小さく笑う声が聞こえた。
『分かりました。じゃあ、何か軽いものでも用意しておきますよ。では後ほど』
バーナビーから誘われる事など、あっただろうか。
足取りも軽く、今来た道を引き返しながら虎徹は考えた。
いや、ない。初めてだ。
これは、バーナビーが虎徹に心を開いてきた証左だろうか。
なんにしろ単純に嬉しかった。
これで一人で家に帰らないで済む。
少なくともある程度の時間は他人との接触が図れる。
この行動は誤魔化しだろうか、自分の中の処理しきれない感情の。
「おお、さむ…」
氷のように冷たい風が、虎徹の頬をナイフのように掠めていった。
両手を交差させ前屈みになって、虎徹は足早に目的の場所まで急いだ。










「こんな時間に電話してしまってすいませんでした」
開口一番謝られて虎徹は面食らった。
シュテルンビルト最上層の高層マンションの一室。
以前にも来た事はあったが、改めて眺めると素晴らしく贅沢な部屋だ。
1階から3階までブチ抜きの吹き抜けのエントランスからして、最上質の建築物の雰囲気が漂っていた。勿論警備員は複数常駐だ。
名前を告げて、セキュリティを解除して貰ってエレベータを上がった。
広いフロアは完全防音なのか、他人の存在を微塵も感じさせない。
エレベータから少し歩いた所がバーナビーの部屋だった。
瀟洒な玄関を抜けると、30畳はあろうかというLDK。
その奥に寝室があり、水回りは寝室に付随して作られているのを、先日初めてその部屋を訪問した時に見知っていた。
LDKは、壁の一つがほぼ全面強化ガラスの一枚窓となっている。
その張り出し部分に座って虎徹はグラスを傾けながら、遙か眼下に煌めく高層ビル群を眺めていた。
暗闇に光るそれらは、100万ドルの夜景と言っても過言ではない。
シュテルンビルトでも最上層の一角でしか見られない光景だ。
目を上げれば、真黒の夜空を背景に、淡く光を発しながらポセイドンラインの飛行船が飛んでいる。
見ているだけでも心が癒されるような、極上の風景だ。
「いや、実言うと俺もお前に電話しようと思ってたんだわ」
そう答えると、張り出し部分から少し離れた床の上に直に座っていたバーナビーが、顔を窓の方に向けてきた。
手に持ったワイングラスをテーブルに置いて、虎徹を見上げてくる。
「それは…奇遇ですね。お互い電話しようとしてたなんて、…なんだろう…」
ふ、と口元が緩んで、綺麗な弧を描いて口角が上がった。
完璧な左右対称の端正な顔に、柔らかな印象が加わる。
拈華微笑だったか…。バーナビーの顔を見て連想した言葉を頭の中に思い浮かべる。
夜だからだろうか、彼の印象がいつもと違っていた。
柔らかく、…少し緩めだ。
いつもは硬質な印象さえ感じさせる微笑が、今は内側から柔らかく溶け出したように甘やかな雰囲気を纏っている。
甘くて、どこか儚い微笑み。
…虎徹は訝しく思った。
――いつもと、何かが違う。
返事をせずに押し黙って、バーナビーの顔を見つめる。
グラスを下に置けば、浮かんでいた氷が軽く触れ合って、涼やかな音を響かせた。
「不思議ですね。貴方がこうして今ここに来てくれている事も、…なんだか夢みたいだ」
「そりゃあ俺のセリフだろ。…お前が俺を招待してくれるなんて思ってなかったからな…?」
グラスを置いた右掌を目の前に翳す。
冷えた手に水滴が付いていた。
指の隙間から、バーナビーの顔が見え隠れする。
くるりと外に跳ねた金糸の髪。
虎徹をじっと見つめてくる二つの瞳。
瞳がいつもとは色合いが変わって見えた。
碧色が濃く、まるで底の知れない泉のようだ。
何を考えているのか、計り知れない、深い水の底のような。
不意にバーナビーが立ち上がった。
音もなく絨毯の上を歩いて、虎徹の前まで来る。
張り出し部分に腰を掛けていた虎徹に凭れかかるようにして隣に座ると、そのまま暗い街並を見下ろした。
「ここから見る景色、好きなんです。昼間見ると、飛行船が青空に浮かんでいる。ビルが太陽に反射して光っている。夜になるとビルの光が周りに広がって、街並が光の渦みたいになる…」
「そ、うだな。確かに、すげー綺麗な景色だ…」
「小さい頃、飛行船に乗るのが夢でしたよ。子供でしたから一人で乗ることはできませんでした。たまに両親が連れて行ってくれる時だけ。…とても楽しかった…」
飛行船に乗るって、わくわくしませんか?と問い掛けながらバーナビーが首を傾げて虎徹を覗き込む。
見つめられて虎徹は僅かに息苦しさを感じた。
シュテルンビルトの夜景を背景にして、深い色を湛えた瞳が自分を射貫く。
思わず息を止めて、それに見入る。
顔に街の光が仄かに当たっていた。
金色の髪が微かに光った。
「小さい頃は毎日が楽しくて、わくわくしていました。暖かくて、安心できていました。…今でも時折、その頃の気持ちを思い出します。こうして景色を見ている時とか。…でも、思い出すと、その後がとても寂しくなる。…僕にはもう、手の届かない思い出だから」
「…バニー」
「つまらない話ですね、すいません。…少し、酔ったみたいです…」
バーナビーの目が、すっと伏せられる。
金色の細く繊細な睫がけぶるように瞳に被さり、白皙の頬が微かに震えた。



我知らず、虎徹はバーナビーの頬に手を伸ばしていた。







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