◆ありがとう◆ 1
アポロンメディア社ヒーロー事業部は本社ビルの中階、ほぼ真ん中にある。
こじんまりとしたオフィスであるが、居心地はいい。
人数が少ない上に、虎徹のデスクには殆どものがないと来ている。
あってもパソコン、照明、ティッシュボックスぐらいだ。
昨夜来の雨があがったばかりで空気も澄んでいて、ヒーロー事業部へ行く間の大きな窓から見える外の景色が綺麗だった。
大きな川を隔てて市街地も見える。
ぼんやりとそれを眺め、それから事業部に入ってデスクに頬杖を突き、だらしなく壁を眺める。
虎徹は昨日、バーナビーと夕食に行った時の事を思い起こしていた。
バーナビーが良く行くという小洒落たバーに行って、そこで上質な酒と贅沢な食事をした。
それはそれでとても美味しく、賠償金等でいつも金欠な虎徹にとっては滅多にない経験であったのだが。
嬉しいことではあったのだが、それよりも虎徹の心の中に引っかかっているのは、昨日の自分とバーナビーの間に流れた時間の事だった。
あの時、バーナビーがチョコレートを虎徹の口に押しつけて、虎徹もそうした。
時間が止まって、あの空間に虎徹とバーナビーの二人きりしか存在しないような空気。
互いの心臓の音が聞こえるようなそんな近さ。
どきどきと鼓動を響き、身体が熱くなって、上擦ったような、それでいてふわふわした気持ち。
バーナビーから目が離せなかった。
彼にもっと触れたいと思ったあの強烈な衝動は、なんだったのだろうか。
考えても答えが出る問題でもない。
単に、雰囲気に流されただけなのだろうか。
にしてもなぜあの時、あんな雰囲気になったのだろうか。
なぜ相手に触れたいと思ったのだろうか。
相手はバーナビーだ。
同じヒーローでコンビを組んでいる仲間で、同性で、自分よりも背も高ければ体格も良い男だ。
どう考えても、ああいう衝動を覚える相手ではないはずなのだが。
(…それともなんだ、俺はアイツが好きなのか?)
確かに最初の印象に比べると、ずっと彼のことが気に入っている事は確かだ。
ほおっておけないし、ついつい世話を焼きたくなる。
彼がどんなふうに暮らしているかとか、何を思っているかとかが気になる。
もっと笑っていて欲しいと思う。
たまに見せる笑顔が好きだ。
生い立ちなどを知るにつけ、彼のことがますます心配になってもいる。
幸せになって欲しいと思うし、辛そうにしているのを見ると心が痛む。
苦しんでいおる様子なのも分かる。
結局、そういうもろもろの感情を一つにすると、それは『好き』、という事になるんじゃないだろうか。
(俺がやつをか…?)
『好き』という感情自体が久方ぶりのことであるので、虎徹は困惑した。
虎徹自身は相手が男だろうが女だろうがそんな事には拘りがないが、そう思っているのと自分がそうなるのとでは格段の隔たりがある。
ここはひとつ譲って、自分がバーナビーの事を好きだとしよう。
……バーナビーはどうなんだろうか。
好かれて迷惑、という事は無いか。
彼が複雑な生い立ちを持っていて、そのことで彼がいっぱいっぱいになっていることはよく分かっている。
今の彼が他人を好きになるとか恋をするとか、そういう余裕がない事も分かる。
だからどう考えてもバーナビーが虎徹に好意を持って――好意は持っているかも知れないが、それが、虎徹がバーナビーに持っている『好き』という感情と同じだとは到底思えない。
……が、昨日の雰囲気はどうだったろう。
あの時は二人して同じ気持ちを持っていただろう、と虎徹は確信を持って言う事ができた。
あの瞬間だけは同じだった。
あの時虎徹はバーナビーに触れたいと思ったし、バーナビーもそう思っていたはずだ。
(うーん……)
結局、あの瞬間だけの特殊な感情だったのか。
それとも少なくとも自分はバーナビーの事が、そういう意味で好きなのか。
などと頭の中をぐるぐるとさせていると、オフィスにバーナビーが戻ってきた。
その日顔を合わせるのは初めてだったので、なんとなく気まずい。
「よぉ」
口籠もりながら声を掛ける。
「今日もまただらしない恰好をしていますね、おじさん。休憩時間じゃないんですからきちんとした恰好してくださいよ」
いつもの彼だ。
なんとなくほっとして苦笑いをしながら、体勢を立て直す。
バーナビーが虎徹の隣の彼のデスクに座って仕事を始める。
ぱちぱちと手際よくキーボードを打つ音がして、横目で盗み見ると、端正な横顔はいつもの冷静沈着な彼であって、仕事に集中しているようだった。
やはり昨夜のことは、一種特殊な雰囲気に飲まれただけなのだろうか。
だとしたら、これ以上その事について言及することもないだろう。
小さく息を吐いて、虎徹も自分のパソコンに向き直った。
暫く押し黙って仕事をして、ふぁと、小さく欠伸をして両手を伸ばす。
目頭を押さえて少し揉む。
年のせいか、或いは単純に事務処理能力がないせいか、少し頑張るとすぐに疲れて肩が凝ったりするところが情けない。
一段落ついたのをいいことに、喫茶室にでも行って一服するかと立ち上がると、
「休憩ですか?」
と、バーナビーが声をかけてきた。
「あぁ、一つ終わったからな、ちょっとコーヒーでも飲んでくるかってな」
「じゃあ僕も行きます。僕の方も一段落しましたからね」
画面を消してパソコンを終了させ、バーナビーが立ち上がる。
喫茶室は、ヒーロー事業部のオフィスのある階からエレベータで30階ほど昇った所にあるのが一番近い。
暫くエレベータがくるのを待つ。
シュン、と涼やかな音を立てて開いたそれに乗り込む。
乗り込めばエレベータの扉が閉まり、ゆっくりと上がり始める。
そこでも両手を挙げて伸びをして、ふと振り返って、
(………)
虎徹はしまった、と思った。
バーナビーと目が合ってしまったのだ。
エレベータには、バーナビーと虎徹の二人しかいなかった。
昨日の個室と同じだ、と思った瞬間、心臓がどきんと跳ねた。
真顔になってバーナビーを見つめると、バーナビーも見つめ返してきた。
(しまった、どうしよう…)
この雰囲気は昨日と同じだ。
(やばい…)
折角オフィスの中では普通に話していられたのに。
バーナビーが少し眉を寄せた。
問い掛けるような視線だ。
眼鏡の奥の緑の目が、零れるような切なさを湛えて大きく見開かれて虎徹を見つめてくる。
まずい!と思うのに、知らないうちに顔が近付いていた。
まるで強い磁力で引き寄せられるように、バーナビーから目が離せなくなる。
気がつくと虎徹は、バーナビーの唇に自分のそれをそっと触れ合わせていた。
ふっくらとして柔らかい感触がする。
暖かく、少し乾いた唇だ。
ぞくり、と背筋が震えた。
鼻孔をバーナビーの甘やかな匂いが擽る。
バーナビーがつけている香水だろうか。
甘く爽やかな香りだ。
背中にバーナビーの両手が伸ばされて、やんわりと抱き締められる。
触れていた唇を離して彼を窺うと、バーナビーが間近で虎徹をじっと見つめてきた。
緑の目がすっと細くなって、その瞳に自分のシルエットが映っている。
思わず彼の頬に手を伸ばし肌を撫でると、バーナビーが微かに唇を震わせた。
もう一度、キスがしたい。
誘われるようにその唇に、自分のそれを押し当てる。
角度を付けて唇を交差させ、柔らかく食む。
バーナビーの身体が細かく震え、その震えが虎徹に伝わってきて、虎徹は瞬時目の前が霞むほどの情欲を感じた。
強烈な欲望に眩暈がする。
もう長い間感じた事の無いような、純粋な本能の戦慄きだ。
シュン、と音がして、エレベータの扉が開く。
はっと我に返って、慌てて虎徹はバーナビーから離れた。
バーナビーも、夢から覚めたような表情になる。
がややがとしたざわめきが聞こえてきて、エレベータの前に乗り込もうと待っている人々がいた。
慌てて手の甲で唇をぬぐって、虎徹は取り繕うように笑った。
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