◆ありがとう◆ 3
「よぉ、今日飲みに行かねー?」
その日も虎徹は一人でトレーニングセンターでぼんやりとしていた。
おざなりにトレーニングをするものの、やる気も意欲もないので、メニューもこなせない。
そこに、アントニオが声を掛けてきた。
「あぁ、…そうだなー…。行くか…」
もうやる事がなくなると、家に帰るしかない。
家に帰って一人きりになると、またいつもの堂々巡りが始まる。
そう思って沈んでいた所をアントニオに誘われて、虎徹は頷いた。
アントニオに連れて行かれたバーは、落ち着いた雰囲気でいかにもアントニオが好みそうな肉主体の店だった。
店内は穏やかなジャズがかかっており、落ち着いた大人の客のみが楽しめるそういうゆったりとしたバーだ。
食欲もない虎徹はアントニオが隣で大ぶりのステーキを食べるのを見ながら、焼酎を飲み、チーズを摘んだ。
「なにか食った方がいいんじゃねーのか?」
カウンターの一番端に二人で並んで座ってひっそりとしていると、アントニオが虎徹の目の前にフライドポテトの皿を置いた。
「なんか、胃腸の調子が悪くてな」
「おい、どうしたんだよ。最近のお前、おかしいぜ?つうか、前から気になってたんだけど、おい虎徹、お前、バーナビーと何かあったのか?」
単刀直入に聞かれて、虎徹は返答ができなかった。
「最近お前らつるんでねぇじゃねぇか。前は食事だって一緒に行ってたのにな。どうしたんだよ?」
どうしたと言われて、別になんでもない、と答えようとしたのに、できなかった。
カウンターの端は二人だけで、他の客とは少し離れている。
虎徹が一番端に座り、身体の大きなアントニオが虎徹の方を向いていると、二人きりの空間ができて話し声が他人に聞かれる恐れもなかった。
「お前さぁ、アイツにフラれたのか?」
「……え?な、なんだよそれ…」
「なんだよじゃねぇだろ、だいたい見てると分かるぜ」
アントニオが肩を竦めてウィスキーを口に運んだ。
「お前、ヤツのこと好きなんだろ?」
ずきん、とその言葉が胸に突き刺さって虎徹は思わず俯いた。
顔を横に向けてアントニオを窺うと、アントニオが虎徹を叱咤するように鋭い視線で見てくる。
「自分を誤魔化すんじゃねぇよ」
20年来の親友の真摯な視線には、虎徹もそれ以上誤魔化しきれなかった。
「あぁ、そうだな、好きだ、と思う」
アントニオが溜息を吐いた。
「俺が見た所、バーナビーの方だってお前の事好きだぜ?何がうまくいってねぇんだよ」
「何がって、そりゃぁ、お前分かるだろ?バニーは俺よりも10歳以上、下だし、俺は楓がいるし、同じ男だし…バニーは前途有望で、全然俺とは違うし…」
「そういうもんかね?」
アントニオが言う。
「俺はそういう恋愛ごとには疎いからたいした意見は言えねぇけどよ、お前、それでいいのか?何が怖いんだよ。また一人になるのが怖いのか?」
考えてみるとアントニオは、5年前虎徹が一人になってしまった時にも傍に居て見守っていてくれていた友人だった。
その頃の虎徹をよく知っているからこそ、そういう風に言ってくるのだろう。
虎徹は溜息を吐いて俯いた。
「あぁ、怖い。いろいろ怖いよ俺は。好きだっていうのは簡単でも、好きになってそれで何もかもうまくいくわけじゃねーだろ。相手の将来を潰すのが怖い。バニーに捨てられるのが怖い…。今はバニーは俺の事を好きだとしても、今後ずっと好きでいてくれるかどうか分からない。バニーはこれからどんどん伸びてくだろうし、俺はそうじゃねぇ」
「虎徹、お前、年取ったなぁ…まぁ俺もだけどな…」
アントニオが手をひらひらと振った。
「お前さ、そういうつまんねぇ事ばっか考えるから年取っちまうだぜ。恋愛ってそういうもんなのか?俺を幻滅させんなよ、虎徹。俺はまだそんなちゃんとした恋愛なんてしたことはねーけど、お前が結婚する前からお前の事見てて、恋愛っていいなって思ってたんだぜ?お前は俺の恋愛の先輩なんだ。だから、今度も怖がらずに行けよ。いいのか本当に、そんな怖い怖い言っていて、折角の素晴らしい相手を逃していいのか?よく考えてみろ、お前にとってバーナビーってどんな存在なんだ?そういうふうに自分が怖いからって言って目の前からいなくなっても大丈夫な存在なのか?そのぐらいなのか?」
アントニオの言葉がいちいち虎徹の胸に突き刺さる。
「バーナビーの将来がどうとか言う前に、ヤツの気持ちも考えてみろ。それにヤツの将来がどうとかはそりゃぁヤツの問題でそこまでお前が考えることじゃねえだろ、ヤツだっていい年の大人なんだ。お前が好きだって言って向こうが拒否したら、それはそれで潔くあきらめればいい。でもそうじゃねぇのに自分から身を引いてうじうじ考えて、ヤツのためとか言って自分に逃げ道作って卑怯じゃねえのか虎徹、結局自分が傷つくのが怖いから、そうやってバーナビーのためとか言って、逃げてんじゃねぇのか?」
「……………」
アントニオの言葉がぐさぐさと心臓を貫いてきた。
考えてみると、その通りだ。
自分が捨てられるのが怖いから、自分が傷つきたくないから…。
結局自分が可愛いから、バーナビーの将来のためとかそういう言い訳を作ってあきらめようとしていた。
確かにそんなの自分らしくない。
と言うか卑怯だ。
卑怯な事は何よりも嫌いな自分なはずのに、その自分が卑怯な事をしていた。
結局、我が身可愛さに自分の気持ちもバーナビーの気持ちも誤魔化していたという訳だ。
そして我が身可愛さにバーナビーを避けていた。
避けられてバーナビーはどんな気持ちだったろうか。
表向きは完璧でそつなく振る舞っていても、内面は繊細で細やかな彼のことを考えると、虎徹は胸が詰まった。
バーナビーにも酷い事をしてしまった。
バーナビーのためと思うなら、彼の今の気持ちを大切にしてやるべきだったのではないか。
将来なんて、その時になってみなくては分からない。
毎日毎日その日その日が今なんだ。
その今をないがしろにして先のことばかり考えていてどうする。
「いや、悪い、アントニオ、そうだよな…。オレ、ちょっとバニーんとこ行ってくるわ」
そう考えると矢も楯もたまらず、虎徹は立ち上がった。
アントニオが肩を竦めた。
「今日はここは俺が奢ってやるから早く行けよ」
「悪い、お前ほんといいやつだよな」
「はっ、今更だろ」
そう言ってを手をひらひらさせてアントニオが苦笑する。
アントニオに見送られて虎徹はバーを後にした。
出ると雨が降っていた。
夜になって空にはすっかり雲がかかり、雨が降っていたのだ。
傘を持っていなかった。
どうしよう、と一瞬考えて、虎徹はそのまま雨の中をばっと走り出した。
傘などどうでもいいと思った。
それよりも早くバーナビーに会いたい。
会って、今の気持ちを伝えたい。
伝えてバーナビーがどう思うかは分からないが、とにかくもう誤魔化したりバーナビーを避けたりしない。
バーからバーナビーの住むマンションまでは、かなりの距離があった。
階層を跨いで虎徹は走った。
走っているうちに身体がすっかり濡れて髪は貼り付き、帽子は重たく濡れて邪魔なので取ってしまった。
バーナビーのマンションの入り口から入ると、びしょ濡れの自分を不審そうに警備員が見てきたが、構わずに通り過ぎる。
以前バーナビーから教えられていた番号をエレベータに入力して認証を行うと、エレベータが降りてきた。
乗ってビルの高層階まで一気に上がる。
シュン、と静かな音がしてエレベータが開く。
誰も居ない静かなフロアを小走りに走ってバーナビーの部屋のドアの前まで行くと、虎徹は息を吸ってインタフォンを押した。
「おじさん……」
カメラで虎徹の姿を認めたのだろう、バーナビーの驚いたような声がマイクから聞こえてきた。
「バニーちゃん、入れてくんね?」
ドアがすっと開いた。
「どうしたんですか?びしょ濡れじゃないですか…」
寝ていたのだろうか、バーナビーはTシャツにハーフパンツというラフな恰好だった。
あまり中に入ってしまうと部屋を濡らしてしまうと思って、虎徹はドアから一歩入った所で立ち止まった。
背後でドアが閉まる。
「風邪を引きますよ、今タオル持ってきます」
「いいから、それよりバニー…」
虎徹は部屋に戻ってタオルを持ってこようとするバーナビーを引き留めて、そっと手を握った。
バーナビーがびくっとして虎徹を見つめてくる。
「バニーちゃん、俺さぁ、お前の事好きなんだわ…」
「……………」
バーナビーが目をぱちぱちと瞬かせた。
呆気にとられた様子なのを見て、虎徹は更に続けた。
「ごめんな、なんか勝手な事言って。でもどうしても今言っとかなきゃって思ったんだ。俺、お前の事が好きだわ。実を言うと前から自分の気持ちには気付いてたんだ。それでちょっと悩んで、お前の事少し避けてた。そうしたら、お前から避けられるようになって、それで寂しくてな…。なんかどうしようもなくなっちまった…。なんていう俺の事情はまぁおいといて、とりあえず言いたかった。ごめんな、勝手で、でもどうしても言いたい。……俺はバニーちゃんを愛してます…」
そう言って虎徹はバーナビーの手をそっと握り込んだ。
バーナビーの手は温かく、虎徹の雨で冷え切った手にバーナビーの体温が直に伝わってくるようで心が震えた。
「…じゃ、おやすみ…ごめんな?」
「ちょっと待ってくださいよ!」
バーナビーの手を離して帰ろうとした所を、背後からバーナビーが離された手で反対にしっかりと虎徹の手を掴んできた。
「勝手に言って勝手に帰るなんて酷いじゃないですか、おじさん」
「え?うん、そうだな、酷いね、…ごめん…」
「おじさん、こっち向いてください」
有無を言わさぬ調子の声に、虎徹は思わず顔を上げてバーナビーを振り返った。
バーナビーがじっと虎徹を見つめて微かに微笑んだ。
「貴方って結構バカですよね…」
「そうかな…?うん…」
「バカで意気地なくて、自分勝手だ」
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