◆四面楚歌◆ 1







自分が追われる立場になるなどとは、想像だにしていなかった。
今まで30年以上も生きてきて、高校時代にバカをやったりもしてきたが、決して犯罪に手を染めるような事はしてこなかった。
小さな頃からヒーローになるのが夢だったし、ヒーローとは、何より正義の味方で、市民の命を守るために悪を征伐する者だ。そのヒーローが悪になってしまったのでは洒落にならない。
ヒーローになって『壊し屋』なんていう嬉しくないあだ名も頂戴したが、それだってその上に『正義の』という修飾語が付く。決して悪い意味ではない。
けれど、今俺は、確実に追われていた。
それも世界中に公表された指名手配中の殺人犯としてだ。
一体全体どうなっているのか、まるで訳が分からない。
まず、今日は始まりからしておかしかった。
昨日、バニーの家の家政婦をしていたサマンサさんが、わざわざ俺の事を尋ねて会社にやってきたのに、会えなかった。俺が出動している間に帰ってしまったというのだ。
バニーの事について重要な話があるというのでとても気になっていたのもあり、俺は会社の帰りにサマンサさんの家に寄ってみた。
家は鍵がかかっておらずしかも部屋の中は暖炉の火がついたままだった。
あそこでおかしい、と気付けば良かったのかも知れないが、俺はてっきりサマンサさんは近所に用足しにでもでかけたのだろう、とか軽く考えてしまった。
いくら待ってもサマンサさんは帰ってこず、俺は結局彼女の家に泊まってしまった。
次の日、つまり今日の朝になっても、彼女は帰ってこなかった。
あの時点で警察に届けていた方が良かったのだろう、今となっては全て後の祭りだが。
それから出社して、もうそこからおかしかった。
ロイズさんに挨拶したのに、彼からまるっきり不審者扱いされた。
しかも、会社の社員ゲートが俺を拒否した。
ロイズさんは俺を知らない、と言ったまま会社の中へ入ってしまうし、俺は入れないし、ゲートの警備員と揉めているうちに、テレビが始まって俺の名前と顔写真が思い切り公開された。
それもサマンサさん殺人犯として。
俺の言い分などそこではどうにもならなかったから、俺はとにかくそこから逃げた。
能力を発動させて逃げたが、しかし、どういう手段を使ったのか、街は既に俺の手配ポスターで溢れていた。
まるで選挙前の告知ポスターのようだった。
街頭モニターも俺の名前と写真をでかでかと放映するし、俺はシュテルンビルト、いやそれ以外の街でも、指名手配中の凶悪なネクスト殺人犯として周知されてしまっている。
どうしたらいいのか。
自分は一体どうなってしまったのか。
混乱して整理できない。
テレビを見る限り、ヒーロー達が大挙して俺を捕まえるために街に出ているらしい。
ヒーローTVの中継が華々しく俺の名前を連呼しながら、スカイハイやブルーローズの様子を伝えている。
昨日まで仲間として俺の事を心配してくれた彼らの様子を。
見る限り、スカイハイもブルーローズも、俺を捕まえるという事に全く疑念を抱いている様子はなかった。
俺、すなわち鏑木・T・虎徹は、彼らの中では凶悪な殺人犯なのであり、それ以外の何者でもない、という事だ。
俺が仲間で友人で、お互い会話をしたり笑い合ったりした仲間だという認識は、どうしてしまったんだろうか。
俺の知っているスカイハイなら、ブルーローズなら、俺を殺人犯扱いなんかしないはずだ。
誰からか、この場合警察あたりだろうか、俺が殺人を犯した、と言われたとしても、そこでまさか、と反論してくれるはずだ。
ロックバイソンはどうしたんだろう。
ヤツも俺を追っているのは確かだ。
つまり、俺を…殺人犯だと思っているのか?
バニーは…バニーはどうなんだ。
結局スケート場で喧嘩別れしてから、バニーと会っていない。
話したい。
会って謝りたい。
キスしたい…。










「おい、そっちはどうだ?」
「こっちにはいないみたいだな」
向こうから数人の声が聞こえた。
俺ははっとして、汚らしい細い路地に隠した身体を更に奥へと引っ込めた。
饐えた臭いの広がる汚いブロンズステージでも最下層の街。
そこの細い路地の奥、昼なお暗い薄汚い崩れた家の、漸く大人一人が通れるぐらいの私道に俺は潜んでいた。
会社に出勤した時の服装のままでは、すぐに身元がばれてしまうが、着替えをしに自宅へ帰る事もできなかった。
どうせもう自宅などは警察が押しかけているに違いない。
今からではどこにも帰れない。
俺はどうしたらいいのだろう…。
そう思うと急に不安が押し寄せてきて、また混乱しそうになり、俺は慌てて数度深呼吸をした。
落ち着け、鏑木虎徹。
今まで何年ヒーローやってきたと思ってるんだ。
こんな事ぐらいで挫けてたまるか。
俺はヒーローだ。
ヒーローの、ワイルドタイガーだ。
しかし、今までの朝からの経過を思い返してみると、どうやら俺は、ロイズさん、それからきっとヒーロー仲間にもだろう、何故か分からないが、俺という存在自体を忘れられているようだった。
俺、すなわち鏑木虎徹は、アポロンメディア社の社員ではなく、ロイズさんは俺を忘れている。
そしてアポロンメディア社に属するヒーロー、ワイルドタイガーは存在していて、それは俺ではない…ようだった。
ヒーロー仲間達もおそらく認識は同じだろう。
という事は、アポロンメディア社の他の社員、斉藤さんもそうだろう。
そしてヒーローTVを今現在中継しているという事実から、アニエスもそうなのだろう、というのは推測できた。
つまり、俺、鏑木虎徹がワイルドタイガーだと知っている人間は全員、その記憶が無くなっている、ということになる。
一体どうして、そうなったのか。
昨日帰るまで、帰るときに会社のゲートを通っているから、その時までは俺はアポロンメディア社の社員のワイルドタイガーだったはずだ。
今朝来た時はもうそうではなかったから、昨日、俺が帰った後から今日の朝までの間に、その事実が抹殺された事になる。
しかもただ消えただけではなくて、俺を知っている人間の記憶からも抹殺されている。
そして俺はサマンサさんを殺した犯人とされ、指名手配になっている。
誰かがサマンサさんを殺して、俺に罪を着せた。
その誰かは、俺の会社での履歴を消して、ゲートを入れなくした。
その誰かは、ロイズさんの記憶を消した。
きっとヒーロー仲間やアニエス達の記憶も。
そんな事ができる人間が、果たしているのか。
――いるとしたら、その人間は強大な権力を持っている。
ロイズさんやヒーローに直に接する事ができて、記憶を操作できて、アポロンメディア社の内部に潜入して社員の記録を改竄できる人物だ。
そう考えると、そういう事をできる人間は、やはり一人しかいなかった。
逃げながらずっと考えていた人物だ。
アポロンメディア社のCEOアルバート・マーベリック。
…彼しかいない。
彼がどういう手段を講じて、ロイズさん筆頭にヒーロー仲間の記憶を改竄したのか、それは分からなかった。
それになぜマーベリックさんがそういう事をしなければならないのかも分からなかった。
俺が邪魔なのは確かなようだが、何故だ?
俺はマーベリックさんにとってただの自社のヒーローというだけじゃないか。
わざわざこんなに事を大きくして俺を追い詰めるような事までして処理したい人間なのか?
分からない。
マーベリックさん以外に俺を陥れられる人間はいない、という所までは推測できたが、理由も手段も分からなかった。
それにそんな事を悠長に考えているような余裕もなかった。
俺を追い詰める包囲陣は確実に市内中に回っているし、ヒーロー達も皆が俺を凶悪なネクストの殺人犯として捕まえようとしている。
朝から逃げ回っていたせいで、すっかり空腹で喉も渇いていた。
追われる立場がこれほど辛いとは予想もできなかった。
すぐ捕まってしまった方がずっと楽だ。
ヒーローに捕まるなら、彼らは犯人に危害を与える事はできないし、いかに殺人犯とは言え、人権は保証されている。
弁護士を手配してくれるだろうし、拘置所は暖かく美味いかどうかは別にして食事も寝る所も提供してくれる。
…などと考えてしまって俺ははっとして自分の頬を平手で打った。
絶対駄目だ。
今捕まったら、…もしマーベリックさんが俺を陥れようとしているのなら、俺は人権を保証されないかも知れない。
弁護士もつけてもらえず、いや、ヒーローの誰かに捕まって表向きは人権に配慮した裁判が行われるという建前にしておいて、実際はマーベリックさんに引き渡られてそのまま殺されてしまうかもしれない。
実際サマンサさんは、殺されたのだから。
そう考えて、背筋が凍った。
マーベリックさんのような強大な相手にどう立ち向かったらいいのか、分からなかった。
バニーの事が唐突に頭に思い浮かんだ。
バニーはどうしているのだろう。
彼はマーベリックさんが育ての親だ。
以前パーティの席で、これからは彼に恩返しをするんだ、と言っていたのを思い出す。
バニーの記憶もきっと改竄されているのだろう。
どうやったらそんな事が可能なのか、まるで分からないが。
とすれば、今頃バニーは、俺を、昔可愛がってくれて慕っていた家政婦を殺した、凶悪な殺人犯と思っているはずだ。
俺が会社の同僚で、コンビを組んでいたワイルドタイガーで、…一緒に事件をいくつも解決してきたバディだとか、全て忘れて。
コンビを組んだ最初は気が合わなくて、何度も衝突したけれど、だんだんと打ち解けて仲良くなって、バニーの家に行ったり、バニーが俺の家に来たりしたのに。
それから―――。
俺は俯いて下唇を噛んだ。
絶対考えないようにしていたのに、とうとう考えてしまった。
一度考えると、堰を切ったように今まで封印していた思いが溢れてきた。
それから――バニーがジェイクを倒して復讐を遂げて、その日の夜に俺に『好きだ』と告白してきた事、抱き締められて、キスをした事。
俺は驚いて、心底驚いて一度は拒絶したけれど、バニーは全くあきらめなくて、それからも何度も告白してきて、結局俺は自分もバニーの事が好きだと認めざるを得なくて、何度目かの告白の時にバニーの言葉を受け入れた事。
その日バニーの家に泊まって初めて彼とセックスした事…。
そんな思い出が次から次へと溢れてきて、いくら下唇を噛んでも駄目だった。
鼻の奥が痛くなって、視界が潤んだ。
ぽたぽた、と涙が滴って、薄汚い路地裏のゴミ溜めに落ちた。










「こっちに不審者が来たって通報があったぞ」
大通りから声が近付いてきた。
慌てて顔を上げると、俺が潜んでいる細い路地と大通りが交差する方から、人影が覗いた。
俺ははっとして身を縮めたが一瞬、動作が遅れた。
泣いていたからだ。
「誰かいるぞっ!」
鋭い声が響く。
警察官だろうか、数人が路地に踏み込んできた。
俺は立ち上がると路地の奥へと逃げた。
足をゴミに取られながら、必死で走る。
「いたぞ!」
数人の声が路地から大通りへとリレーのようにつながって、路地に入り込んでくる。
「回り込め!」
誰かが背後で叫んだ。
路地を抜けて逃げようとしていた俺はその声を聞いて狼狽して周りを見回した。
どこか横に逃げられる所はないか。
狭い路地は汚い廃屋がひしめき合っており、どこにも逃げ道はなかった。
俺が逃げようとしていた先にも追っ手が到達したのか、細く伸びる光の中に人の黒いシルエットが動く。
絶体絶命…という単語が思い浮かんだ。
どうする。
能力を発動させて飛んで逃げたかったが、30分ほど前にそれでここに逃げてきたばかりだった。
能力は使えない。
心臓がどきどきと破裂しそうに鳴った。
焦りで目の前が霞む。
捕まったら終わりだ。
マーベリックさんの所に連れて行かれてジ・エンド。
絶対いやだ。
でもどうしたらいい――。
(――っっ!!!)
突如背後から口を塞がれた。
あっと思う余裕もなく、俺は口を塞がれたまま身体を拘束された。
驚愕に一瞬目が眩む。
後から回り込んできた誰かの腕が俺の鳩尾を深く抉った。
「………」
どこから人が来たのか皆目分からなかった。
俺はそのまま昏倒した。










霞んだ視界。
薄暗いその部屋はまるで見覚えのない部屋だった。
天井はグレイで、所々蜘蛛の巣が張っている。
天井板にはなんでできたのか分からない、いつからあるのか分からないような年代物の染みが随所にあり、汚れが濃淡になって絵のようだった。
ぼんやり俺はそれを眺め、黴臭い部屋の空気を吸って、ゆっくりと覚醒した。
顔を巡らす。
小さな曇りガラスの窓があり、薄汚れたカーテンが掛かっていた。
元は綺麗な淡い水色だったらしいそのカーテンは、すっかり汚れて暗い灰色になっていた。
顔を横にすると、些か湿ったシーツに頬が当たる。
粗末なシングルベッドに俺は寝かされていた。
身体は重く、鳩尾はずきずきと痛んでいたが、俺は慎重に庇いながら上体を起こした。
その部屋は小さく、ベッドに椅子とテーブル、そのぐらいしか無かった。
どこなのか全く分からなかった。
汚れたカーテン、天井と同じように染みの付いた板壁。
ブロンズステージには良くあるタイプの、底辺労働者が仮住まいにするアパートのようだ。
廃屋になってそのままうち捨てられたものだろうか。
警戒しつつ俺が部屋を見回していると、一つだけある小さなドアが開いた。
「おや、気がつかれましたか?水、いかがです…?」
落ち着いたテノールの声。
上品な身のこなし。
長い銀青の髪を揺らして、その人物は入ってくると、俺の目の前に、飲料水のペットボトルを差し出した。
「朝から水も飲んでいないのではないですか?ワイルドタイガー…」
ワイルドタイガー、と呼ばれた時、息が止まった。
俺は呆然としていた。
目の前の彼は、薄い色の双眸をすっと細め、笑い掛けてきた。
「本名、鏑木虎徹、そして貴方はワイルドタイガー。…そうでしたね?」
俺は戦慄く唇を漸く開いて、目の前の人物を呼んだ。


「裁判官、さん…?」






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