◆Without Your Love◆ 2
「何かお取りしますか?」
いつものように夜中、一人でいると、彼がやってきた。
雑誌コーナーで何冊かぱらぱらと読んだ後、突き当たりの壁のお酒のコーナーで冷蔵庫から焼酎のワンカップを取り出す。
それから更にお菓子コーナーを回って、小さなチョコレート、最後に一口サイズのチーズの入った総菜を手にしてレジにやってきた。
「これ、お願いしまーす」
そう言ってそれらをレジに出した後、ふい、と顔を傾げて、レジの隣にある暖かな総菜のガラス棚を見たので、僕はそう声を掛けてみたのだ。
「んー、そだねぇ。ね、これ、どれが美味しいの?」
意外にも彼は人懐っこく話しかけてきた。
「そうですね。この中だとこの胡椒入りソーセージとか美味しいですよ」
「ふうん…じゃあ、1本買ってみるかな。…これもお願い」
「はい、ありがとうございます」
彼が僕ににこっと笑い掛けてきた。
笑うと彼は更に若く見える。
人懐っこそうな目は、よく見ると琥珀色だ。
きらきらと光って、虹彩の色が茶色や金色に移り変わる。
やや厚めの唇の口角が少し上がって、中から白い歯が覗く。犬歯が少し尖っている。
その表情が思わず可愛い、と思ってしまって、僕は密かにどぎまぎした。
彼は一体どこからやってくるのだろう。
部屋着でそのまま来るようだし、手には何も持たず、たいてい1コインの小銭をポケットに突っ込んで持ってくる様子を見ると、この店の近くに住まいがあるのだろう。
一人で来るところを見ると、一人暮らしなのだろうか。
だがよく見ると、彼の左手の薬指には結婚指輪が嵌められている。
結婚、しているんだろうな、と思った。
しかし、それにしては彼の醸し出す雰囲気から、配偶者の存在が感じられない。
シュテルンビルトは、単身赴任で地方から出稼ぎに来ている人も多く住んでいるから、彼もそういう人間の一人なのかも知れない。
あるいは、離婚したか、もしくは死別したのかも知れない。
僕はウィンナーをガラス棚から取り出すと、専用の紙で包んで、彼に差し出した。
「あ、どうも…」
「お買い上げありがとうございます。このウィンナー、美味しいですからね?」
「――そ?じゃ、早速食ってみるな」
そう言って彼が軽く手を振って、店を出て行く。
後ろから見ても、とてもスタイルが良かった。
一体、何をしている人なのだろうか。
こんな夜中に来る人というのは、たいてい、普通に会社に勤めている人ではない。
夜中に勤め人が来るのは、残業で遅くなって、会社からの帰りに寄り道する時だ。
きちっとしたスーツを着込んで忙しくせかせかと店内を動き回る。
とりあえず必要な食べ物や日用品を買っては声も掛けずにすぐに帰っていく。
そんな人が殆どだ。
そういう人たちに比べると、彼はのんびりとやってくる。
雑誌を所在なく読んだり、店内をふらりと見回ったりしている。
彼に興味を持ったのは、そういう、どこか世の中からはみ出したような雰囲気が、僕に安心を覚えさせたからかも知れない。
はみ出していて、でも、他人を和ませる独特の雰囲気を持っている。
彼を見ていると、心がほっとした。不思議だった。
「いらっしゃいませ」
その次に彼がきた時、その時も店内には僕以外誰もいなかった。
静かな店内に、彼の歩く足音だけが響く。
彼がその日も酒とつまみを買おうとレジに来た時、僕は思い切って声を掛けてみた。
「珈琲淹れたんですけど、一緒にどうですか?」
「……え?」
彼が一瞬きょとんとする。
僕は紙コップに注いだ熱々の珈琲を示した。
「あー、……ホントだね。…いいの?」
「はい。結構暇なんですよね、夜って」
「あ、そう。…じゃあ遠慮無くいただこうかな…」
この店は、端の一角に飲食コーナーがある。
コーナーと言ってもそこにあるのはカウンターに椅子が3つ程。
ほんの少しの狭い空間だが、そこには電子レンジやポットがあり、珈琲を飲んだり、電子レンジで温めたものをそこで食べることが出来る。
僕たちはそこに移動した。
淹れ立ての珈琲と、それから自腹で買ったチーズ入りのウィンナーを皿に乗せて出す。
チーズ入りウィンナーはレジの横の総菜コーナーで売っているもので、それを僕は一口サイズに切って皿に乗せた。
「はい、どうぞ」
「え、これもいいの?」
「ええ。これも美味しいんですよ、僕のお勧めです。おごりですから気にせずに」
「いやあ、悪いね。バイトの人にこんなに良くしてもらった事なんて、俺、ないよ?」
彼がうきうきとした様子で言ってきた。
「そうですか?」
「うん。君ってちょっと変わってるって言われない?なんてね、俺としては嬉しいけどね」
言ってから失言だったと思ったのか、彼がはっとしたように目を瞬かせ僕を窺ってくる。
僕が気にしてない、という様子を見せるとちょっと舌を出して悪戯気に笑う。
――そういう風にして、僕と彼との交流が始まった。
彼はそれからも2、3日に一度は店にやってきた。
僕は、彼がやってくれば必ず珈琲を飲んで、飲食コーナーで会話をするようになった。
なんとなく、何でも話せるような雰囲気が、彼にはあった。
僕は彼に聞かれるままに、取り留めもなく自分の事を話した。
大学の事とか、就職の事とか。
今、大学に行っているけれど、もう二ヶ月ぐらい休んでいる事とか。
就活がうまくいかなく、て休んでしまった事とか。
将来どうしようか悩んでいるけれど、とりあえずはバイトをして少しでもお金を貯めておかなくちゃと思っている事とか。
そういう事を思いつくままに話した。
彼は時折頷いたり瞳を細めたり、それから珈琲を飲んだりしながらそんな話を聞いてくれた。
「えっと、あの、……もし良かったら、お名前教えていただけませんか?」
何回目かに会話をした時、僕はそう聞いていた。
「ん?あ、そうだね…まだ名前言ってなかったか」
彼が肩を竦めて、琥珀色の双眸を柔らかく細めた。
「鏑木、虎徹。よろしく」
「…虎徹さんですか?よろしく。あ、僕はデビットって言います。デビット・リースマン」
「デビット?」
「そうです、そう呼んでください」
彼が僕の名前を呼んだ時の声の響きに、僕は何故かどきどきした。
彼の声は低く響いてどこか甘く、いつまでも聞いていたいような声だった。
暖かくて不思議と安心するような、そんな声だった。
「虎徹さん、お仕事は?」
もうちょっと突っ込んだ事を聞いても大丈夫なような気がして、僕はそう質問してみた。
「ん?普通の会社員だよ」
「え、そうなんですか?芸術家か何かかと思っていました」
「なにそれ!」
彼が眉尻を垂らして苦笑する。
「あ、すいません。でもなんか普通の会社員っていう感じがしなくて…」
「ははっ、そうかなぁ?」
彼が目尻に少し皺を寄せて笑う。
「まぁ、でも、俺なんて、君からみたらおじさんだろう?」
笑いながらそう言って、彼が珈琲を飲む。
その横顔は、自分でおじさんと言うような年齢にはとても見えなかった。
顎髭がある、という事だけがかろうじて彼を年齢相応に見せている気がした。
もし顎髭が無かったら、現在22歳である僕よりも数歳年上ぐらいの、いわゆるお兄さんという感じだろう。
まぁ今だって、お兄さんという感じで見えなくもない。
「虎徹さん、若く見えますすよ?」
僕が意気込んでそう言うと、彼は僕を見て小首を傾げて瞳を細めた。
彼の瞳が琥珀色に光る。
不思議な色だと思った。
日系人の目はたいていもっと濃い茶色だ。
それに比べると彼の目は薄かった。
日系にしては背も高くスタイルも良い。
いろいろな血の入ったミックスなのかもしれない。
それも良い所が発現したミックスだろう。
少しくたびれたジャージを着ているからそうは見えないけれど、きっとこれでぱりっとしたスーツなどを着たら、さぞかし見栄えのする格好いいサラリーマンになるに違いない。
それにしても、彼が昼間普通に会社員をしている姿が想像できなかった。
どういう風に仕事をしているのだろうか。
やはり彼もぺこぺこ頭を下げたり、あるいは僕に意地悪な質問をした試験官のようにじろりと人を冷たく見つめたりするのだろうか。
いや、そんな事はないな。
彼に限って絶対、他人を冷たく見つめるなんて事はしないだろう。
きっと優しく包むように見つめてくるに違いない。
彼とそうやって何回も話している内に、僕はすっかり彼と親密になっていた。
2、3日に一度、夜の店で珈琲を飲んで彼と会話する時間を、いつしか心待ちにするようになっていた。
なんていうことのないただの雑談なのに、それだけでとても心が癒される。
彼の顔を見て、声を聞いて、一緒に話して笑い合う。
それだけで心が満たされて、普段殆ど誰とも話さない一人の時間が、苦にならなくなってきた。
勿論、こんな風にモラトリアムで過ごしていられる訳は無い事は分かっていた。
けれど、彼と会って、話をするその時間さえあれば、なんとか今の僕でも生きていけそうな気がしていたのだ。
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