◆Without Your Love◆ 8





あれから―――。
彼を抱いてから。
僕はそれから一度も彼に会っていない。
彼が避けたのではなくて、僕が彼の前から姿を消した。
あの日、彼の家でセックスをして、夜遅くなったからということでそのまま彼の家に泊まった。
朝、彼が朝ご飯を作ってくれて、僕たちは和やかに二人で食事をして、それから僕は自分のアパートに戻った。
その時は、それ以後も普通に彼と接することができると思っていた。
でも僕はそうではなかった。
考えてみると、彼を抱いた時から、もう、そうではなくなっていたのかもしれない。
あの日彼を抱いた、あの時……。
彼がどんなに僕の腕の中で、いつもの彼から変貌したか。
僕を誘い、蠱惑したか。
僕がどれだけ、彼の魅力に取り憑かれてしまったか…。










次の日、いつものようにコンビニにバイトに行った。
彼はその日は来なかった。
僕はバイトをしながら、コンビニの外ばかり見て、気が急いてどうしようもなかった。
彼が来たらどうしようと思った。
でも来なくてもどうしようと思った。
彼の姿を見ないと落ち着かなくて、バイトをしていても失敗ばかりだった。
それでいて彼がその日来なかったことに、僕は心の底からほっとしていた。
彼に会うのが怖かった。
彼と僕とセックスをしたのは、好きだと告白された同僚とうまく肉体的に接触ができるかどうか、それを試しただけである。
彼が僕を好きなわけでも何でもない。
その試すのだって、僕がしてみませんか、と誘ったのであって、彼から積極的に言ってきた訳ではない。
僕が彼としたかったから、そう言っただけだ
ただしたかっただけなのに、実際してみて、彼にこんなに深く捕らわれてしまった自分が怖かった。
怖いと同時に、もう二度と彼は僕を誘ってくれないだろう、彼とそういう意味で接触を持つことはないだろう、と思うと、胸の奥がちりちりと焼けてどうしようもなかった。
結局の所僕は、彼が好きになっていたのだ
しかし、彼は僕を好きではない。
彼が好きなのは、同僚なのだ。
その同僚と、きっと彼はうまくいくんだろう。
僕とセックスをして、もうセックスが抵抗なくできるというのが分かったからには、彼は躊躇無く同僚とその行為に及ぶに違いない。
そう思うと心の中が苦しくて、嫉妬でじりじりと焼かれるようで、僕はどうしたらいいか分からなかった。
彼に好きだと言ってしまいそうだった。
そんなことを言ったら彼は困って、そうしたら結局コンビニにもやってこなくなるに違いない。
僕と彼を繋ぐものは何も無い。
彼はコンビニにやってくる客の一人に過ぎず、僕はそのコンビニのバイトに過ぎない。
僕と彼との間に、それ以外の接点はない。
これが彼の同僚なら……。
彼はその同僚と一緒に組んで仕事をしているという事だから、朝から晩まで傍に居る事が多いだろう。
それだけではなく、プライベートでも付き合うという事になれば、彼らの絆は強固なものになる。
僕がそんな所に入れるはずもない。
もともと入れるなどとは思ってもいなかったが。
けれど、僕は辛かった。
自分の腕の中に抱いた時の彼の表情。
潤んだ目。
半開きになった赤い唇。
僕の愛撫に応えて震える身体。
繋がった時の彼の中の熱さ。
喘ぎ声。
吐息。
そういうものをつぶさに僕の身体は覚えていて、ふとした瞬間にまざまざと思い出してしまう。
そうすると彼が欲しくて欲しくてたまらなくなった。
もし次に彼に会った時、彼が嫌がっても、もしかしたら僕は彼に乱暴を働いてしまうかもしれない。
自分に自信がなかった。
そんな事をしたら、何もかも壊してしまう。
折角彼が見せてくれた好意も、今まで話して来て仲良くなった関係も……。
そうならない前に、どうにかしなければならなかった。
結局僕は、バイトを辞めた。
彼に好きだと言ってしまったり、乱暴を働いてしまって全てのものをだいなしにしてしまう前に、彼との一夜の思い出を甘美な美しいものとして残しておく方を選んだのだ。
僕は唐突にバイトを辞めた。
彼を抱いた後、その彼がコンビニに来る前にバイトを辞めたから、結局僕は彼とあの朝、彼の家で別れたまま。
……そのまま二度と会っていない。










それから僕は、三ヶ月ほど登校していなかった大学に戻った。
そして今は全く別のバイトをしている。
大学から紹介された家庭教師だ。
実験が佳境に入ったが、週に1、2回で済む家庭教師のバイトは続けられるし、時給もいい。
奨学金と親の仕送りでくらしている僕にとっては、非常に助かるバイトだった。
少しでもお金を残しておいて、大学院に備えたかった。
僕は虎徹さんの事を忘れるように、朝から晩まで研究に打ち込んだ。
担当教授と議論をし、夜は家庭教師のバイトがあるときはそれに行き、それ以外の時はさっさと帰って寝てしまう。
できるだけ、彼の事を思い出さないようにした。
実験は精度の必要な細かい作業であって神経を使うから、それに没頭していれば彼の事を考えなくて済む。
そうして一ヶ月ほど経つと、僕はだんだんと虎徹さんの事を思い出さないようになった。
元々彼とはそんなに接触があったわけではない
2ヶ月ほどのバイトの間に、夜中に両手で足りるほどの回数、会っただけだ。
飲みに行ったのも一回だけ。
彼を抱いたのも一回だけ。
大丈夫だ、僕はそう思った。
たまに、本当にたまに、自分がバイトをしていたコンビニを見る事があった。
夜に見るのは切なくてダメだったが、昼間用事があってその辺を歩くときにちらりと見た。
虎徹さんは、いつものように夜中にこのコンビニにやってきているだろうか。
彼の自宅も分かっていたが、そちらのほうには絶対に行かないようにした。
行けば、やはり自分に自信がなかった。
コンビニを見るだけだって切なくて切なくて、胸がいっぱいになってしまうのだ。
それでも彼に会わなければ、その切なさもだんだんと薄れていく。
そうして僕は少しずつ少しずつ、大学生としての日常を取り戻し、不登校だったあの三ヶ月間を忘れようとしていた。










そんな、研究が軌道に乗って平和な日常が続いていたある日。
その日も僕は自分に割り当てられた実験室で、朝から実験をしていた。
実験は精密機械を操作するものだけに、集中力が要る。
朝から行っていた実験が一段落して、昼を食べに実験棟から少し離れた学生食堂に行った。
昼食後帰ってきてまた実験の続きをしようと、実験棟のエントランスまで歩いてきた時だった。
学生や教官たちがざわめきながら、皆ビルを見上げている光景に出くわした。
なんだろう、と僕も他の人たちと同じく上を見た。
(………!)
そこで僕は、実験棟の屋上から身を乗り出している人物を見たのだ。
実験棟は10階建ての、比較的こじんまりとしたビルだ。
大学は広い敷地を持っていて、その各所にそのようなこじんまりとした建物が散在している。
周りは緑に囲まれ、川が流れていたり、理学部の付近だと植物園が併設されていたり、薬学部の方には薬草園があったり、それぞれ緑豊かなキャンパスとなっている。
僕の実験室のある実験棟は、工学部実験棟の中でも外れにあった。
学生食堂からは10分ほど歩く。
普段もあまり人気がなく、たいていこの建物を利用する学生もしくは教官ぐらいしか来ない所だが、今日に限ってなぜか人がたくさんいた。
どうやら屋上にいる人物を見物に来た、というと語弊があるが、話を聞きつけて他学部から駆けつけてきたようだ。
僕は遅い昼食を摂っていたので気付かなかった。
あらためて屋上を見ると、その人物のシルエットに見覚えがあった。
同じ研究室の一つ上の大学院生だ。
僕が大学に復帰してから結構話すようになった、人なつこく大人しい学生だ。
「あっ、あぶねー!」
見物人の誰かが叫んだ。
はっとして目を懲らすと、彼が屋上のフェンスを乗り越えて、フェンスを掴んでいた手を離そうとしていた。
飛び降り自殺をするつもりなのだ。
「やべーよっ、早くなんとかしねーと!」
「でもどうするんだよつ!」
皆がざわざわとざわめく。
僕は考えるよりも早く走り出していた。
エントランスから実験棟に入り、エレベータがくるのを待てずに非常階段を駆け上がる。
屋上へ通じるドアを開けると、さぁっと風が吹き抜けた。
「ウォルター…」
僕は彼の名前を呼んだ。
呼びながら彼を刺激しないように少しずつ歩を進める。
フェンスの向こうで、遙か地平を見下ろしていた彼が、びくっと反応して僕の方を振り向いた。
「おい、来るなよ…」
低い声で僕を威嚇してくる。
そんな暗い声を聞いた事がなかったので、僕は怯んだ。
その声や、彼の視線は、数ヶ月前の僕を彷彿とさせた。
胸がどきんとなった。
ここで彼がもし、手を離して飛び降りてしまったら…。
いや、ダメだ。なんとか思いとどまらせないと…。
「ごめん、でも、どうしても話したかったんだ。こっちにきて、僕と少し話さないか?それから考えてもいいだろ?」
僕は震える声を振り絞って説得にかかった。





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