◆茨の冠◆ 32








次の日、やや遅れて出社すると、既にデスクに座っていた虎徹が心配そうな顔をして自分を出迎えた。
「おはようございます」
それに対して虎徹が何か言うより早く、にこやかに笑顔を向けて挨拶して、バーナビーはいつもと同じように自分のデスクに座った。
「あ、おはよ、あの…」
「仕事しますね」
そんなバーナビーの様子を見てやや躊躇してから、虎徹が何か言いかけようとしてきたので、バーナビーは虎徹に顔を向けてにっこりと笑顔を作って返事をし、それ以上彼に何も言わせないようにした。
その後も虎徹は何度も話しかけてきようとした。
そのたびにデスク上のPCに身体ごと向かって仕事に熱中するふりをし、バーナビーは話しかけられない雰囲気を作った。
虎徹もとりあえずあきらめたようで、肩を落とすと自分のPCに顔を向けてしぶしぶ仕事を始める。
内心ほっとしたバーナビーだったが、隣に虎徹がいる限り、自分のその繕った態度がほころびてしまう恐れもあったので、そうそうにデスクワークを切り上げた。
「お先に失礼します」
はっとして顔を上げる虎徹に先ほどと同様の取り繕った笑顔を見せて、バーナビーは足早にヒーロー事業部を後にし、トレーニングセンターへと向かった。
その日は午後に単独の取材が入っていたから、トレーニングセンターから直接取材場所へと向かう。
これでもう、今日は虎徹に会わずに済む。
トレーニングセンターに行って、疲れて倒れ込むほどにメニューをこなしシャワーを浴び、スポーツドリンクを飲んだぐらいで取材場所へと足を向ける。
午後一杯取材をこなし、アポロンメディア社には戻らずにそのまま直帰したので、虎徹には全く会わなくて済んだ。
会わなくても、大丈夫だった。
不安にならずに済んだ。
虎徹が自分の目の届かない間に何をしているのか、今までは気になって、不安で居ても立ってもいられなくなったのに、それもなかった。
―――良かった。
そう思った。
以前だったら、こんなに虎徹と離れていたら、彼の事が気になって気になっていらいらして、発狂寸前になっていた所だ。
でも、もうそんな風に不安に駆られることもない。
自分から、虎徹に別れを告げたのだから。
もう、……セックスをすることも、ない。
……虎徹と二人きりで、自分の部屋で。
彼が優しく自分の名前を呼び、唇を触れ合わせ抱き締められて。
彼の体温を自分の中に感じ、一つになって快感を共有して、めくるめくような幸福に浸ることも、ない。
もう、二度と、無い。
それでも、昼間は気が張っていると言う事もあり、大丈夫だった。
更には、いらいらしたり不安に駆られたりすることもなくなったから、傍目には仕事を精力的にこなし、前よりも活動的になったように見えていただろう。
虎徹には、どう見えていただろうか。
自分の事で、もう虎徹を苦しめたくなかった。
彼を、自分から解放して、自由にしてやりたかった。
だから、これでいい。
自分も大丈夫だし、虎徹も、すっきりしただろう……。
だから、いいんだ。










しかし、夜、マンションに戻って一人になると、……違った。
確かに、今までのような不安やいらいらは無くなった。
いらいらして虎徹に電話をして彼を責め立てるような、そんな攻撃的な感情はなくなった。
が、代わりに、別の感情が生まれてきた。
一言で言えば絶望、喪失感、……そういうものが静かに深く、バーナビーの心を蝕み始めていたのだ。
深く深く、沈潜した悲しみ、虚しさ。
自分の心が半分以上もがれてしまったような、欠落感。
そして、虚しくて虚しくて、何もかももう捨ててしまいたいような、そんな虚脱感。
そういう新たな負の感情が、バーナビーの心を蝕み、全身を覆い尽くすようになった。
特に、夜、ベッドに入ると酷かった。
バーナビーのベッドは、虎徹との思い出をどうしても思い出させる。
ここで彼が自分を抱き締めてくれた時の、心のときめき。
虎徹の匂い。
肌の感触。
耳元で囁かれる、彼の声。
抱き締められた時の体温。
五感全てが虎徹をまざまざとリアルに覚えている。
昼間はそれを束の間忘れていられたとしても、夜になると、より一層脳の中でリアルに再現されるようになってきた。
ひんやりしたシーツの肌触り。
それとともに思い出される、虎徹のしっとりとした暖かな肌の感触。
触れると自分の指をはじき返してくるような、張りのある肌の下の筋肉。
首筋から胸を撫で、小さく色づいた乳首に触れた感触を思い出す。
少し身体を震わせ、くすぐったそうに身を捩る虎徹を思い出す。
お返しだぞ、と言って自分の胸も吸われて、こそばゆさと心地よさに虎徹にしがみつけば、自分を包み込むように抱き締めてくれる彼の腕が好きだった。
安心して、自分の全てをさらけ出してゆだねても、しっかり受け止め抱擁してくれる、そんな安心感と心地良さがあった。
他人前では決して見せないような甘えた姿をさらしても、嫌がらないどころか喜んでくれる。
我が儘をぶつけても、怒ったりしないで眉尻を下げ、自分を宥めるように抱き締め背中を撫でてくれる。
優しくて暖かくて気持ち良くて、思い出せば出すほどせつなくて苦しくなる。
苦しいのに、思い出さざるを得ない。
虎徹が使っていた彼専用の枕を、バーナビーはベッドの中で抱き締めた。
もう、虎徹とあんな関係を結ぶことは二度と無いのだから、思い切って彼の気配のするものは全て処分するか、洗ってしまえばいい。
彼に結婚を申し込んで、勿論、そんな非常識な願いを彼がまともにとりあうはずもないから、振られるのは当然のことだった。
自分が振られるように行動してその通りになって、一人になる覚悟を決めていた。
そして、自分だってある意味すっきりして、精神的にも落ち着いた。
だから、これで良かったんだ。



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